されどわれらが日々―   柴田翔

 <されどわれらが日々>、と日本人が無気力に慨嘆している隙に、中国共産党はどんどんと謀略を進めていた。あるいは、明日に<立ち尽>している間に。言葉など<贈っ>ている間に。日本人のこのナイーヴさは何に由来しているだろうか。
 六全協のあと「山村工作隊」が解体され、信じるものが揺らいだらしい時代での、教授と学生との愛欲、学生と学生との愛欲が、甘ったるい感傷の中で綴られる。そんなことぐらいで揺らぐ信とは最初から工作者の手に踊らされた信でしかなく、愛と称するものの中に逃避しても、そこに出てくるのはただの自己愛としての偽りの「優しさ」に過ぎない。そして一通り青春らしき迷いを通り過ぎて、修士論文を拵え、語学教師にでもなって、あとは生きていくというだけ、という話を、「いい気な話」と言わずに何と言おう。
 これもまた「妊娠小説」の一つで、女性の処女性に対する幻想と同等な、無謬の共産党による理想の共産社会の実現、それを求めて得られないという嘆息に終始する。なぜこの小説がロングセラーなのか。2007年にもなってまだ新装版が出されるのか。それはわれわれがまだ精神年齢十二才の国に生きていることの証左であると思われる。開高健大江健三郎は「中国訪問第三次日本文学代表団」の一員として中国に行き、それぞれ中国共産党の洗脳(偽情報の提供)を受けたが、それでも前者は後年ニーチェ的哄笑の世界の可能性を示し、後者はフォルマリスムの可能性を示した。さほど露骨な洗脳を受けていない柴田が、このような退化した小説を書いてしまうことは驚くべきことである。そしてそれが世に受け入れられたということはさらに驚くべきことである。「ひどい世の中だが俺だけはいい人間だ」、などということを喧伝するために小説を書くのはやめてくれ。本人に自覚は無いが、そういう人間が一番ひどい人間なのである。この小説の結句は読めば身をよじるほど恥ずかしい。

第51回
1964年前期
個人的評価★★★

カイ  青春小説である。そして青春のロマンが歌われている。そこに稚なさもあり香気もある。読み終って心の中に一種の香気が残る。それが貴重だ(石川達三)
ヤリ  自分のために妊娠中絶、自殺する女子学生の運命まで単に照明役だけに使うというのは、納得できなかった(丹羽文雄)