カクテル・パーティー  大城立裕

 沖縄を舞台に、堂々、旧日本軍人(本土人)、アメリカ軍属、中国の弁護士、沖縄のジャーナリストが打打発止やりあう国際小説。この構成的な小説に対して「私小説」派の評者が文句をつけることが予想されたが、アンチ私小説派の私にしても、後章の「二人称」は読みづらいだけで特段の効果はないと思えるし、対話部分もト書きのように書かずに、前半のパーティーにおける会話の如く記述しても別にいいのではないかと感じた。しかし「作り物否定」派たる瀧井孝作永井龍男両委員の不興をそれで買うにしても、何ほどのことはない。
 日本が中国に対して粗雑に行った戦時暴力を、アメリカが沖縄に対してより巧妙に行っていることの告発。アメリカが法体制という実質的なレベルで自国民の圧倒的優勢を確保しておきながら、親善の名を借りて日本を文化的に支配していることが露出されるこの小説は、孫崎享「戦後史の正体」が書かれ論議の的になっている今、あるいは広く玩味されるべき小説かも知れない。しかし初読の限りでは、この小説のテーマ展開は甚だしく物足りないものだった。短編の題材とするには最初からふさわしくないテーマだったのか、あるいは三島評にある如く主人公の貧寒な良心だけからでは、これだけのふくらみにとどまってしまうということなのか。いずれにしても三島評にある「良心的、反省的、まじめ、被害者」という本作のキャラクター設定の中にすでに、自らアメリカの呪縛に捉えられてしまっている日本人の特性が現れている。作者の中では日本―アメリカという対立の構図より沖縄―日本という対立の構図のほうが(後年に至るまで)重きを成してしまっているのもこの展開が不十分であることの一因であろう。
 三島評の抜粋を掲げる。<「広場の孤独」以来の常套で、主人公が良心的で反省的でまじめで被害者で……というキャラクタリゼーションが気に入らぬ。このことが作品の説得力を弱めている、という風に私には感じられた。」「主人公の社交能力の欠如が、事件をこじらせる一因でもあろうが、作者はそれをすべて大きな政治的パズルの中へ融かし込んでしまう>

第57回
1967年前期
個人的評価★

カイ  問題の図式に乗ったような構成だが、その計算に感情が通り、しかも抑制で強まっている。たとえば、不器用のような会話も無駄話と肝心の話とがおもしろくまざったり、重要な事件は簡潔に書いてかえって効果を高めたりしている(川端康成)
ヤリ  主人公の意識と現実とのあいだのドラマが、作品の中心であるべき筈なのに、極めて不充分にしか見られず、主人公の反省や省察が読者として素直について行けない底の浅さを感じさせます(中村光夫)                           
 
 
 
 本題とは関係のないところで、作中の次の章句が気になった。―「私はふと、この小川氏がいわゆる部落の出身ではないかと疑った。こうもさばさばとストイシズムをロマンチシズムに切り換える感覚というものは、沖縄人のインテリのものだろうと考えていたが、おそらく本土(ヤマト)では、いわゆる部落民なるものにそれがあるのではないかと、かつて考えたことがあるからだ」。―小川氏とはジャーナリストであるが、沖縄人?それとも本土人?