三匹の蟹  大庭みな子

  この「小説」に、何を感じたらいいのか、楽しめるような何かがここにあるのか、それとも何か学ぶべきことでもあるのか、しばらく思い悩んだ。そもそも白い紙の上になにやら文字がつらなっている「これ」は一体何だというのだろう。これが「小説」なのだろうか。外的に何も起こらない小説というものはままあるが、内的にも何も起らないとしたらそれは小説と呼べるのか。ひたすら観念的なだけの会話、まるで会話が観念的という非難にあらかじめエクスキュースするために登場人物に外国人を選んだかのようだ。一見「しゃれた」会話はこの小説の一つの売りであるらしいが、それが洗練と受け取られるか、それとも浮薄な言葉と受け取られるか、いずれも時代を超えることは出来ない評価なので、どちらが妥当か考えることにあまり意味はない。そもそもこれは抱き合わせ授賞作が往々にして有する相方の欠陥補填物という性質上、最初から欠損を有している作品なのか。選評を読むと、群像新人賞をとり評判になったらしいこの作品の、一種正直でダルな女性の内面と性生活に、当時(1968年)の世間は何かの感興を覚えたらしいことが分る。あの三島でさえ褒めているのは意外だった。瀧井―稀有の文才、大岡―否むことの出来ない才能の刻印、井上―文学的資質は相当なもの、等々の評を読んでもただ首をひねるばかり。これらの選評と自分の感想との距離が余りに大きいので、もう一度読んでみた。何も起こらない小説―人妻が行きずりの男と性交渉を持つ、ということを「何かが起こる」中に算入すれば別だが―を二度も読んでしまった。思うに日本で久しく成立していた良妻賢母幻想や、日本にいつまでも残っていた西洋由来の女性の純潔幻想に対する反動として、女性からの自らの背徳志向の言明や背徳的経験の描出が、何らかの文学的な真実の提示として受け止められた、ということがあるのだろう。あるいはそれはいわゆる1968年革命のかすかな反響なのか。それは別にしても、これが背徳の小説である限り、何らかの文学的な試みがここでなされていると言えるのかも知れない。これはしかし背徳の歓びというものが全くない背徳の小説である。

第59回
1968年前期
個人的評価★★

カイ  海外居住者の退屈、無聊、孤独、死にたいほどの寂寥が、私にはよくわかって、この作に感心した(瀧井孝作)
ヤリ  私は一般の好評を向うにまわして、敢て評価出来なかった。殊に最後の結びは、平凡な余情小説のタイプだ(舟橋聖一)