由煕  李良枝

  平仄、音韻とも極めて正統な日本語(例えば島田雅彦などよりはるかに正統的な日本語)によって書かれた小説。その日本語に感心するより、立原正秋が日本人以上に日本人的であったということと同じ悲痛さをここに感じるべきかも知れない。この小説の文学的内実は内的希求と外的条件との落差である。著者の年譜を見れば、話述者の位置こそ違え、ほぼ忠実に自分の経験を書いたものであることがわかる。被差別者の感情の表出、その文学的交換を通して差別者も被差別者もいつか差別から自由になることができる。「文学」を信じる限りこのことは信じるに足ることである。しかし、差別の構造、差別の歴史的意味を問うような作品を「大きな物語」として復活させる必要も一方であるのではないか。そのような作品の成立は、善意に満ちた人間が無意識のうちに差別に加担してしまうということを防ぐ効能がある。その将来に期待する効能を小説の中に秘めることは難しいし、作業の一つの前提として日韓の歴史認識の共通化という絶望的に困難な課題がある。これなども若干偏向的な姜尚中という良心的二流政治学者や竹田青嗣という良心的二流哲学者の仕事ではなく、文学者のそれも韓国側の文学者のすべき仕事であると思う。確かに中立的観照的視点を獲得することは難しい。日本人である、韓国人である、そのこと自体がそのままその人の認識のフレームを決定してしまい、そのフレームは共約不可能である。そのフレームから身を引き剥がすという苦しい作業こそ文学者の責務である。しかし李良枝はとうに鬼籍に入り、李恢成はすでに77歳(彼の作品は日本人の読者の言葉を失わせる)である。現役作家では柳、玄月、それに梁石日くらいだが、彼らにこの仕事を期待してもムリだろう。

第100回
1988年後期
個人的評価★

カイ  陰影と鋭さのあるいい文章(日野啓三)
ヤリ  この主題は政治の局面ぬきで、全民族の視野を含めて描くべきではないか、という疑問が残る(田久保英夫)