あの夕陽  日野啓三

 バルザック「従妹ベット」を読んだ直後に読まれてしまったという不運もあり、この小説は特に矮小なものに思えてしまった。ソウルの旧王宮の庭園などが出てくるのにもかかわらず、この小説は基本的には、四畳半とまでは言わないが、この小説の舞台たるアパートのような、六畳間小説である。世間の総体を描こうとするバルザックの野心は今ではとうに無効であると言っても、あまりのせせこましさが身につまされる思いだ。
 生産でもなく破壊でもない、何というか、つまりありきたりの小説。もしかしたら小説の旨みなるものはあるのかもしれないが、生の旨みは微塵もない。朝鮮人の女に惹かれ、妻との関係が破綻していく、限りなく作者に近い一人の男。あくまでも女体の美と享楽を求めるユロ男爵はここにはいない。ただ衰弱した生に沈む男がいるだけ。この男はフランスの猟色家なら決して見ないもの、即ち夕陽などを眺めやることに何かの感興を見出す。ヴァレリー嬢も夕陽を眺めるような生を送れば、壊疽で惨死するような目に合わずに済んだかも知れない。
 この夕陽を眺めやること、それこそが日本近代文学の本質たる「国木田独歩的転倒」なのだ。柄谷行人の論文「秋幸と幸徳秋水」に拠ると、<「国木田独歩的転倒」とは、「忘れてはならないならない大事なもの」に対して、「どうでもよいが忘れられないもの」を優越させるイロニー的転倒、すなわち「風景の発見」>のことで、それは村上春樹にまで伝承されている。村上春樹は一見、国木田と対照をなす<「想世界」によって現実世界に対抗しようとする「北村透谷的転倒>」を引き継いでいるように思える。しかし透谷の末裔は中上健次ではあっても村上ではない。最近の村上の綺麗ごとだけを並べた政治的言動を見ればそれは明らかである、と山崎行太郎は言う。山崎によってまとめられた柄谷論文のキモは以下の通り。
 <村上春樹の文学は、国木田独歩の文学のように「大事なもの」を忘れ、「どうでもいいようなもの」に意義を見出すような風景と文体を確立した文学であるのに対し、中上健次の文学は、北村透谷と同じような、その死が象徴するように、「大事なもの」に拘ることによって挫折せざるを得なかった文学である。言い換えれば、村上春樹的な「新自由主義」の背後には、中上健次的な「帝国主義」が隠されている。現代は、新自由主義の名を借りた帝国主義の時代である。>

第72回
1974年後期
個人的評価★

カイ  筆に粘りが出て、線も太く、文章は強く(中略)人物も部屋も風景もありありと目に映って好かった(瀧井孝作)
ヤリ  氏の作品には何か口のうますぎる人の打明け話をきかされているようなところがあって、主人公の心の動きに素直について行けません(中村光夫)

 車谷長吉の「漂流物」が、芥川賞候補になったとき、日野が「内容が暗い」と言ったために落とされ、代りに保坂和志が受賞したのは有名な話。車谷は保坂の受賞作を「薬にも毒にもならない小説」と罵倒した。「内容が暗い」などという、たまたまの所感の表明で、人間関係の順逆が形成されていく、というのは恐ろしくも厳正な現実である。この現実には「国木田独歩的転倒」では対処しきれない