祭りの場  林京子

 文章がかなりひどいが、文章がひどいなどという技術的批判を許さない題材であることが辛い。被爆という民族の悲劇を扱う小説の、その欠点を上げつらってもしょうがないのである。今回は、批評は回避して、ただ評家の言に耳を傾けるほかはないような気が私はした。安岡章太郎の、<事実としての感動は重く大きかったが、それが文学の感動にはならなかった>という言葉を見出し、救われたような思いがした。文学的感動に至るには、あまりにシニカルな表現が頻発するのが気にかかるのである。―戦争劇の演出家はたくまずしてピエロをふんだんに生み出すものである― これが火傷の痛みに苦しむ少女を見ての感想である。―神の御子(キリスト教徒、英米人のこと)たちは様ざまな火傷の人体実験をしたようだ― 被爆から30年を経過して、それが自分の悲しみを客観視する一つの方法であることは十分に分かるにしても、シニシズム被爆という体験の、そのうちの小さな一つの山を乗り越える方法であるに過ぎない。しかし課題はその先にある。まだ高い山がその先に聳えているのだ。文学が求めるものはその弧峰を越えることにある。その弧峰を、原民喜井伏鱒二は登頂し了えたのか、あるいは峠三吉、大田洋子は踏破したのか、そもそもその後の林京子はどうなのか、今は良く分らない。今は、吉行淳之介の評、<各節のおわりに必ず捨てゼリフのような数行があり、その部分の発想が不統一>とある、その部分を手がかりにさらに人間への考究を深めることの他に文学的方法はないように思われる。

第73回
1975年前期
個人的評価★

カイ  技術の幼稚さに初心の執念ともいうべき力が感じられるところが、おそらく作者の無意識の才能(中村光夫)
ヤリ  文章と表現の細部に、こなれていないところや、あいまいさがある、などの欠点があるため、採決となって、僅差当選となった(大江健三郎)