伸予  高橋揆一郎

 のぶよ、という変な名前の女教師が、善吉、という変な名前の生徒に「恋をする」(トチ狂う)らしい物語。―この恋許されるか・・・・というのが文庫本の帯のキャッチだが、そんなもん許されているに決まっているだろ。すべてが許されている状況下で、さてどうするというのが問題ではないか。この小説が書かれた1978年でも、とうに。「一切は許されてある」(イワン・カラマーゾフ)」、 ドストエフスキーに応答する義理が誰にもあるわけではないが、だって仮にも「芥川賞」でしょ。確かに「すべては許されてある」というのは「セカイ」系の話で、「社会」では許されていないことのほうが多い。手前勝手な「セカイ」系の小説より、世間の中で生きる人間を描く「社会」系小説の方が小説としては難しい。しかし、これはその社会を描く小説でもないのだ。すべてが許されている状況は生きるに耐えがたく、小説も終らせ難く、そこから生き抜く道、すなわち小説を終わらせる道を見出したわけではなく、最後に死んだ「とうちゃん」が現われて女主人公を叱るだけである。これはこの女主人公の、それ自体は不自然な自罰意識が出てしまっただけのこと。
 出版界の販売戦略とは無縁の、「文芸評論家」柄谷行人の解説によると、この小説では、男の過去と現在、女の過去と現在、この四者の絡み合い、プラスあの世とこの世とが絡み合っているということになる。完全に中立的な全知全能の神のような視点というものはありえない、人は何らかの所与のパースペクティブの中に生きることを強いられる。日本の近代小説のまどろみから覚醒すると、人はそのような所見を得る。そしてそのことの反省から、作者は意識的に方法的に視野を狭めている、というのが彼の見立てだ。つまり、「セカイ」から「社会」にその視点を転換せよ、という風に私は受け取ったが、仮に柄谷の見立てどおりだったとしても、この小説ではそれがどのような文学的豊饒にも繋がっていない。少なくとも私は不毛をしか受け取ることは出来なかった。

第79回
1978年前期
個人的評価★★

カイ  ずいぶん上手な人情話である。これだけの技巧を見せられたら、いちおう感心するのが見物の態度(丸谷才一)
ヤリ  小説らしい「かたち」をこわすほどの、作家に自発する主題というものをもとめたい(大江健三郎)