志賀島  岡松和夫  

 1975年の時点で評価を受けるような「大東亜戦争」の総括がどういうものなのか、それが良く分る小説。我々は敗戦という事実に決して正面から向かい合っては来ず、ただ和歌の詠嘆や仏教の経文の晦冥をぶつけてそれを凌いできただけなのだ。昔のままの姿を残す志賀島を眺めて、国敗れて山河あり、と感慨に耽られてもどうにもならない。戦争に負けてただ目をつぶり、内なる自然の美しさを見る、だって。そんな日本人は滅びるべきではないのか。「忘れてはならない大事なもの」に対して、「どうでもよいが忘れられないもの」を優越させるイロニー的転倒、すなわち「風景の発見」/「国木田独歩的転倒」と「想世界」によって現実世界に対抗しようとする「北村透谷的転倒」とを抱き合わせたような、日本人が苦渋の策として強いられた転倒か。
 この小説の美点は、全編読みやすい美文で綴られているということだが、その美文というものの拠って来る出自というものを考えさせられる。
 九大人体実験のくだりで私小説作家瀧井孝作はドギツイとか言ったらしいが、彼の想像力は戦争そのもののドギツサには及ばないのだろうか。また小説の中身について敗戦をめぐる天皇問題の出立を心配したりもしている。瀧井なぞ右翼は洟もひっかけないと思うのだけれど。この瀧井の評や川西某の解説などは、日本人がいかに偽世界に沈潜していたのかということを証するもののように思える。

第74回
1975年後期
個人的評価★★

カイ  候補作の中で、最も小説らしい小説で、文章も確りしているし、筋の運び方にも練達したものが感じられる(井上靖)
ヤリ  いつも少年ともの判りのいいおばあさんが登場するのは、すこし困る(丹羽文雄)