藤沢周 再説

 荻野アンナに続く再説シリーズの、その2。
 藤沢周については、「ニセモノの作家」という、これまたひどい評語を与えている。受賞作「ブエノスアイレス午前零時」の感想を再掲すれば、以下のとおり。

 私はこの人の容貌を信頼していた。いい面魂をしているのである。作家たるものが備えていてしかるべき、と言いたくなるくらいの顔だ。だからいざその小説を読み、心に何も響くものがなかったとき、それをいきなり作家の責に帰せず、私の読み方の方に問題があると思ったのである。で、再読してみた。虚心に。―やはり、何にも心に響かない。ドロップアウトした男が、過去の回想に沈む耄碌した老嬢とダンスをする、それだけの話。あらすじが手軽に書ける小説。あらすじを書くとその他に何も残らない小説。そういう話でも、抑制された筆致というものがあれば、小説として認められ、評価されるらしい。なんだか疲れてしまう。思い切って言ってしまおう。―言う前に、念のため「サイゴン・ピックアップ」も読んでみてから。・・・やはり言うことにした。これは偽作家の手になる偽の小説だと。時代小説で言えば、津本陽だ。剣道着を着て木刀をかざしているといかにも真正の時代小説作家に見えるが、作品は読めども読めどもみごとに空疎である。

 この感想は、今読むと我ながら許しがたいもののように思う。偽作家などという無神経な決めつけをしているからではない。どこかに「ホンモノ」というものがあるという自分の楽天性に思い至るからだ。本物と贋物を一義的に決定できるなどという幻想、なんという甘さ。本物と贋物を区別できる客観的基準は存在しない。せいぜい存在するのは、「これが本物だ」という宣言と、実践的行動によって意味空間を形成していく営みだけである。
 今回もむしろ「贋物の作家などと言う資格は誰にもない」という結論に至れば、私の心にも平安が訪れよう。しかしその結論には至りそうもない。

 手に取ったのは「武曲」。図書館の返却本コーナーでたまたま見つけた。奥付けを見ると2012年刊とあり、バリバリの新作である。これは恰好の小説だ。しかしなにやら剣道が出てくる話らしいので、嫌な予感もした。藤沢を贋作家とするときに参照例として出した津本陽のそれの如き剣道小説なのか。
 
 剣道の実践を通して生の位相が変わっていく高校生の物語。剣禅一如の世界。
 「剣」と「禅」については、芥川賞受賞作を読破する試みの中ですでに遭遇している。「剣」は五味康祐「喪神」、「禅」は斯波四郎「山塔」。この両作に対する感想は、「武曲」にもそのまま当てはまると思うので、これもその一部を再掲する。

 「喪神」

 なぜか芥川賞に紛れ込んできた剣豪小説。
(宇野浩二などの評家が)「所詮、芥川賞にも程とおく、直木賞にも程とおいものである」―と言うに及んでは、少し弁護したくなる。 すなわち、剣豪と称された人々が到達した人間観照の極地は、文学が接近しうる人間の真実のもっとも精微なるものを示している―というふうに。それはまた内田樹思想の極微が、彼の武道思想に集約されるということと同じ事情である、というふうに。しかしそれは例えば「バガボンド」でも十分に示しうるものである、ということは、そもそもの文学というものの限界がここに露呈している、とも言えるように思う。

「山塔」

 禅的に人生を追求する小説。あるいは人生=禅と捉える小説。こころは過度の脈絡に拘束されず、もっと刹那を感じて生きるべし、ということ。しかしそれはすでに一種定型的言説のパターンに過ぎず、現にこの私は何の啓発も受けない。一言半句でも良い、定型を超えた、読むものを震撼させる言葉を求めたくなるが、しかしこの種の禅小説は、そのようなものを求めること自体が迷いの中に埋没していることだと告げるだろう。高尚なのか高尚めかした口吻なのか、その両者の間の径庭は極微であるが、しかしそれが悟りの行程を述べる言説である限りは、内実は「相田みつを」的な低俗な人生訓にならざるを得ない。

 剣道、という闘争の技術の枠組みで生を考察する、というのは現在必ずしも有効とは言えない旧套的方法であるし、禅語を持ち出せば、ドイツ観念論哲学の如く労せずして何でも言える。つまり剣禅一如、の世界を今更持ち出されても困るのだ。江戸時代のような閉塞し成熟した社会、自足し停滞した社会の中でなら、剣禅一如は生きるだろう。しかし維新後の日本は現代に至るまで動き続けている。

 この作家の筆力自体は認めざるを得ない。しかしそれは①鍵カッコ内の会話文と内面語、②万能の語り手が書き付ける地の文とが断絶している記述空間内でのレトリック、という意味での筆力である。①と②との言葉の径庭の無惨さを見よ。

 「白川ぁ。おまえ、何、さっきからいってんの ? 矢田部先生に、俺、ぶっとばされたじゃん。やっぱ、かなわねえし」
 建總寺境内を泣き声で波打たせている蝉や、梵鐘の音や、横須賀線の踏み切りの音、風、夕焼け、線香の匂いすべてが、自分と結ばれている ? 自分というよりも、むしろビャクシンの木にへばりついて鳴き喚ている蝉が、自分であっても同じなんじゃね ? と妙なことさえ思う。

 この径庭の無惨さに耐えられない感性があれば、地の文から丸ごと改変する新しい文体への格闘を志すだろう。禅語に文学を還元してはいけない。それに、いくら晦渋な禅語を持ちだしても、この小説は「ブエノスアイレス」でダンスをしている、その代りに剣戟をしているだけなのだ。
 新しい文体の獲得の他にもう一つ方法がある。それは時代小説を書くことである。そうすれば①と②との径庭は消え去ってしまう。無理に現代にこだわらずに時代小説に転身した方が良い。彼の筆力と、剣禅の雑学的知識とで、剣豪小説の傑作は間違いなく書ける。藤沢周という名前が禍して、それはそれで別の意味で難しいかも知れないけれど。
 藤沢の経歴を見れば、気の毒なくらい文学賞とは無縁のようである。ここでつい皮肉を言ってしまう悪い癖が出て、彼が時代小説を書けば、吉川英治文学新人賞は取れるだろう、と言いたくなるのを抑えることが出来ない。山本周五郎賞は無理かもしれないけれど、と余計なこともついつけ加えたりする。しかし、半分以上は親切で言っているつもりだ。彼の資質と筆力が生きる場所はここであろうと思う。
 「山塔」の斯波四郎は森敦の弟子であるという。藤沢周も森敦に「小説を書いた方が良い」と勧められたクチらしい。森のように誰にでも小説を書けと推奨するのも考えものだ。むしろ「小説なぞという不要不急のものなど書くな」という抑圧の方が、いい作家を生むのではないか。

 編集者時代に、森敦に作家になれ、と勧められたときのことを藤沢が書いている。

 「一日一枚書きなさい。一年で三百六十五枚になります。それで芥川賞を取るのです」。菊池寛横光利一に才能を見出され、「酩酊船」(一九三四年)を発表したにもかかわらず、突然放浪生活に入った奇人。何人もの現役作家達が森敦を探し訪ね、小説のヒントやインスピレーションを得ていたというエピソードが脳裏を過ぎる。すでに物故した作家達も、「おまえ、聞け。とにかく聞け」と囁いてくるのだ。静謐なリビングの空間が、「月山」の祈祷簿で作られた紙の蚊帳の繭にも思えてくる。だが、私はそんなチャンスにもかかわらず、「僕は物語が嫌いなんです。ストーリーというもの自体が馬鹿馬鹿しいと思うのです」と不遜にもいってしまった。その時、森敦先生、「物語? そんなものいりません。コレスポンデンスです」。祈祷簿の蚊帳がざわざわと揺れたようだった。

 してみると、時代小説というものも、藤沢には合わないということになる。彼は彼の「月山」を書くしかないのだろうか。どう読んでも「キッチュ」としか思えないような小説を。そもそも「どこかに行きたくともどこにも行けない」時代に、放浪者に訊くべきことが何かある、と思うのも、この世の中のどこかに「ホンモノ」があると思うくらい、甘い幻想なのではないか。