abさんご その3

 この小説の表記法、「ひらがな」の多用とその一方での漢字造成語の多用が、情緒を排除する効果があることは、それなりに得心がいく。この表記法にはさらに残っているもう一つの要素がある。「カタカナ」の排除である。外来語を表記する「カタカナ」はこの小説では一切使われていない。「かーど箱」「くりーむいろ」「すこっちてりあ」など、この小説で使われている外来語(数えるとそれは10個ある)はすべて「ひらがな」表記である。「カタカナ」はなく、それを飛び越してアルファベット(a,b)という外来がいきなり使われていることになる。ここにも、字面の視覚的効果のほかに、何か期待された効果があるのだろうか。
 情緒の排除以外の要素、いや情緒の排除ということがもう少し深いレベルで行われていることをそれは示しているのだろうか。
 日本語が、漢字・ひらがな・カタカナの三種の文字で表記されていることについては、有名なラカンの言及があり、またそれに触れた柄谷行人の「日本精神分析」という仕事がある。ラカンの言及は漢字の「音読み」と「訓読み」との併在が、日本人を「嘘つきであるということなしに」、真実を語ることを可能にしているという。また日本人には精神分析が不要である、とも。私にはラカンの言うことはよく分らないが、柄谷はこれに外来語をカタカナ表記することをつけ加えて、前者は中国文明の影響を受けながら、それに飲み込まれることなくあくまでも外在性のままとどめ、後者は同じく西洋文明の影響を受けながら、それを外在性のまま押しとどめている効果を持っているという。これなら少しは分る。このことが、丸山真男を嘆かせた「日本ではいかなる外来思想も受けいれられるが、ただ雑居しているだけで、内的な核心に及ぶことがない」ということにつながっているのだ、と。
 柄谷によるラカンの要約は次のようになる。

 日本人はいわば、「去勢」が不十分である、ということです。象徴界に入りつつ、同時に、想像界、というか、鏡像段階にとどまっている。
 (中略)
 ラカンがそこから日本人には「精神分析が不要だ」という結論を導き出した理由は、たぶん、フロイトが無意識を「象形文字」として捉えたことにあるといってよい。精神分析は無意識を意識化することにあるが、それは音声言語化にほかならない。それは無意識における「象形文字」を解読することである。しかるに、日本語では、いわば「象形文字」がそのまま意識においてもあらわれる。そこでは、「無意識からパロールへの距離が触知可能である」。
 (中略)
 したがって日本人には抑圧がないということになる。なぜなら彼らは意識において象形文字を常に露出させているからだ。したがって、日本人はつねに真実を語っている、ということになる。
 (ラカン協会における講演「日本精神分析再考」より)

 情緒に絡まれる、ということは、象徴界の中でなおも依然として鏡像段階にある、ということではないか。すれば、漢字―ひらがな―カタカナ、という日本語の表記システムに揺さぶりをかければ、この鏡像段階想像界を抜け出ることが出来るのかもしれない。この推論が正しいかどうかを私は立証出来ないが、こう考えること自体に何か魅惑を感ずるのである。
 
 ひらがなの多用と漢語の造成によって、音読み、訓読みの二重構造を解体し(音読み、訓読みの別と、それに対する漢字・ひらがなの配分は極めて恣意的になされている)、カタカナの排除によって、カタカナ抜きで「ab」に飛躍することによって、外来文明の、外在性を拒否すること。
 さらに、固有名詞の排除、端的には「家事がかり」を固有名詞で呼ぶことの拒否、人称名詞の拒否、さらには「お義母(かあ)さん」と呼ぶことの拒否、つまりそれらの呼称を使用するときに必然的に生ずる情緒(鏡像段階)を厭嫌すること。
 
 これらのことは二つの効果をもたらす。
 一つは、ラカンの言う意味で、真実を語らざるを得ない日本語のエクリチュールの罠を排し、「嘘をつく自由」を獲得することである。
 こう考えると、啄木の「ローマ字日記」のローマ字や、谷崎の「瘋癲老人日記」のカタカナ表記も、日本語の情緒構造、あるいは日本語の混用表記システムを避けて、「嘘をつく自由」を求める方法のように思えてくるのだ。

 もう一つは、去勢不十分の、不完全なエディプスを脱すること。そのときそこに何が現われるか。凶悪なイオカステが現われるのではないのか。不完全なエディプス、それは、健全で低俗な女性の侵入をなすすべもなく受け入れた「父」のことだ。「父」の不完全なエディプス経験を尻目に、イオカステは勇躍、象徴界に赴くのであった。
 クンデラが、残された「最後のタブー」としたイオカステの問題が、ここには潜んでいる。
 作家は、幼時に母の死によって母性を奪われただけではなく、父の後妻たる「家事がかり」という文化侵略者によって、母性の無化そのものを経験した人間なのだ。それでも彼女はイオカステなのか。しかり、彼女は今や父の死の年齢を超えて生き延びているではないか。
 この小説は、父よりも長く生きるであろう自分がやがてその父を自分の息子であるかのように愛するであろうことの予感の中で、―精神分析を必要としない日本人のようにではなく―むしろ、精神分析という優しい愛の理解の手を求めて、それに自らの身をさしだした小説である。―と断言してみせる、日本語表記法の中で思考する私に、多分、抑圧というものがないであろうことは、確かなことのように思われる。というより、学術的には存在するであろう文脈的齟齬を無視して、言明に断言という意味論的効果を求めるときに、私の中の西欧中心主義という抑圧に気づいたのだろう。抑圧は気づき―意識化によって、それをほぼ無化することが出来るのだろうから。