辻仁成 再説

 辻仁成「海峡の光」に対する初読時の個人的評価は★(特に読む必要なし)で特段に評価が低いわけではない。しかし、前回の藤沢周のところで出た「ホンモノ」「ニセモノ」のテーマを敷衍するのに、彼は格好の作家である。つまり辻の作家としてのありように思いをいたすと、「ホンモノ」と「ニセモノ」との定義が手に入るような気がするのだ。
 仮にも小説を書くような人間は、原初に物語に耽溺したという経験を持つ、と措定して、その先の、「その物語に傷ついた人。その傷を癒すために自ら物語を改変しようとする人」を「ホンモノ」とし、一方「ニセモノ」は「物語に傷ついていない人。物語の模倣で、かつての耽溺を延命しているだけの人」、とするという風に。「海峡の光」を読んで、私は直感的にそこに「文学に傷つけられてなどいない人」を見出した。明言はしなかったが、私は辻を「ニセモノ」と断じたのである。
 しかしこれでは「物語」と「文学」とがいささか混乱している。言い直そう。人を傷つけるような物語、それが文学である。物語に傷つくということはそこに「文学」を感知することである。この「文学」が感知でき、さらにその傷から癒されるために、自ら「文学」を装置する人、彼(彼女)をこそ、「ホンモノ」の作家と呼ぶ。
 一方、「物語」を単に「物語」として享楽した人、物語に傷つくのではなく、「作家(になる)という物語」に傷つき、その傷から癒えるためには自ら作家になりおおせることしかない、と思いなした人。彼(彼女)をその範囲で「ニセモノ」と呼ぼう。一見後者に見えながら、実は前者だったという作家も大勢いる。芥川龍之介という作家にかぶれて、しゃにむに作家になると思いつめた太宰治などはその例だろう。しかし太宰はそれだけではなく同時に「物語」にも傷ついていたことは自明である。「物語」に傷つくことと「作家という物語」に傷つくこととは、純文学を顕彰する芥川賞が作られた時に始まり、戦後の出版文化の興隆とともに作家という存在が特権的に輝きだす時代を経て、ワープロが普及し、原稿用紙に文字を書きつけるという重労働に耐え得ない人までが、文章を気楽にせっせと綴りだす近年に至るまで、実は限りなく近接し、相似形をなしていたことだった。虚構であるか否かを問わず、何か文章を書けば、作家であることが自他共に認められる現在では、この二者の距離は限りなく遠くなり、もはや別次元に属する話になっている。

 「傷つく」とは、付け加えれば概ね以下のようなことでもある。その物語に魅せられ、魅せられるあまりに、その物語が自分の実生活以上の価値を持つ。ゆえに彼の実生活は放置され、あるとき実生活の荒野に一人で立ち尽くしている自分を発見する。そのときすでに彼の同僚たちはさんざめく実生活の都会で享楽の日々を送っている。彼に出来ることは二つしかない。足元の荒野を開拓すべく耕しはじめるか、あるいは遅ればせにその都会に向けて旅立つか、の二つだ。これは「ホンモノ」の中でさらに細分化して現れた分岐である。

 さて、この定義で言うと藤沢周は、そもそも「物語」に耽溺した、という経験を有しないから、「ホンモノ」と「ニセモノ」との分岐以前にすでに除外されている。彼は「作家という物語」に傷ついたわけでもない。彼の言明に韜晦がないと前提すると、彼は単に「編集者」という職業から「作家」という職業に、いささかの野心もなく鞍替えしただけなのだ。
 かくて、藤沢周を「ニセモノ」としたいがためにその定義を考えたが、定義が成立してみると、藤沢はそこからもはじけ飛んでしまった。

 辻仁成に、「作家という物語」のほかに、「物語」そのものに傷ついたという痕跡は見出せるか。つまり彼の小説は「文学」か。このような問いにこだわるのは多分愚かなことだろう。辻は音楽家でもあり、映画監督でもあるらしいが、彼の音楽は果たして「音楽」か、彼の映画は果たして「映画」か、という問いが無意味だとしたら、小説だけにそれを問う、つまり小説にはその上のカテゴリーとして「文学」と「非文学」がある、とするのはいささか滑稽ですらある思い込みというものだろう。
 再説にあたって読むべきは、世評高い「白仏」が良いと思い、これを買い求めてまじめに読み始めた。フランスの五大文学賞の一つだというフェミナ賞を日本人として初めて受賞したという。これは快挙である。戦死者の鎮魂のために骨を集めて骨仏を作ったという自身の祖父の顕彰のために書いた小説。しかし、読み進めてしばらくすると、その事実の部分のほかは作者の創作であるという、その創作の部分が、果たして真に祖父の顕彰になっているのか、という疑念が萌し、たちまちこの長い小説と付き合っていくのが億劫になってきた。この小説が芥川賞受賞第一作であって、「海峡の光」の直後に書かれた小説であること、再説の主旨からしてなるべく近作のほうが適切であること、ということを理由にして、いったんこの小説を横に置くことにした。代わりに彼の著作リストの、なるべく近年の方からあてずっぽうに選んだのが「ダリア」。予備知識も何もなく読み始めたが、平凡な中流家庭に謎の人物が現れて家族の中に入り込み、やがて家族を支配していく、というような筋立て。「めくるめく背徳と耽美」と、文庫本の帯にある。物語の中に入りかけては、あまりにも陳腐な表現に興ざめし、再び入り込む努力をしてはまた弾かれる、ということを繰り返して、なんとか話の筋を掴む。「めくるめく」思いはもとより、恐怖すらも感じないのはどういうわけだろう。章ごとに、祖父―妻―夫―次男等々と、話者が替わっていくその構成のためか。それは多面的に現実をとらえるひとつの手法ではあるが、最初の祖父が耄碌しているという設定で、現実と妄想の区別がつかないという風に、現実の相対化が過度になされている。それもそれに見合うだけの表現の生彩があればまだしも、おおむね平準な表現が続くので読むのが苦痛。公平を期して言えば、文学に触れる喜びを感じさせる、一定の質をクリアしていると思われる表現は二箇所だけあったけれど。「悪」というものの解明に赴くというのは現代文学のひとつの課題である。しかしこの小説をたとえば平野啓一郎の「決壊」の隣に並べることは到底出来ない。多分「悪」というものに接近するには、かの全能の第三者の視点、絶対の視点が必要なのだ。悪を多視点で描くことは、それだけで「藪の中」の相対悪のところでつかまってしまい、その先に行くことができない。
 文学的収穫がない小説を読まされた後はその腹いせにつまらぬツッコミなどもつい出したくなる。舞台は日本でパリじゃないんだから「アパルトマン」はないだろう。パリの街路樹ならマロニエでいいが、日本なんだからそれはトチノキなんじゃない ? 道路を挟んで褐色の移民系住民と旧住民とが抗争を起こすって、それは日本じゃなくパリの話だろう。そもそも非キリスト教徒たる日本人になぜ「悪魔」という心象が生じてくるのかな、等々。
 辻は、二人の女優ととっかえひっかえ結婚したというなかなかの経歴を有し、いまや「パリ在住」の作家である。あまつさえ彼の作品は教科書にも採用されている。彼の「作家になるという物語」はほぼ完結したかのようだ。そして、そもそも「物語」につけられた傷が化膿して文学となる、というタイプの作家では彼はない。「パリ在住」の効能も今のところ、上記のようなトンチンカンな現れ方をしているだけだ。いっそフランス語で好きなパリを舞台に小説を書いたらどうだろうかと思う。カズオ・イシグロの通俗小説が英語圏では高評価を受けたのだから、それもありの選択だ。

 ここで、再び公平を期して「白仏」に戻るべきだろうか。
 しかし、私には次の事実を確認すれば事足りるような気がする。
 映画監督としての彼は、監督・脚本・音楽を手がけた何作目かの作品で、ドーヴィル・アジア映画祭とかいう映画祭で最優秀「イマージュ賞」を受賞した。辻が誇る国際的キャリアのひとつだが、受賞した作品名は「ほとけ」である。してみると、やはり「白仏」に対する評価も、「作家の値うち」で福田和也が否定しているにも関わらず、エキゾチズムの学術的変形たるオリエンタリズムの現れに過ぎないのだろう。この作品もその「イメージ」が評価されたのだろうと考えて大過ないような気がする。同書で福田は84点という高得点を「白仏」につけている。これは「近代日本文学の歴史に銘記されるべき作品」だそうである。しかしそもそも私は彼が石原慎太郎の作品に96点という最高点をつけたときから、その文学鑑賞眼に信頼を置いていない。