abさんご  その4

 単行本「abさんご」には、初期の短編が三編収められている。「毬」「タミエの花」「虹」の三篇で、それらは「タミエ」シリーズと呼ぶべきものである。三歳くらいから小学校初年の頃にいたる幼女の内面が生き生きと綴られている佳品である。―というのは「毬」から「タミエの花」まで読み進んでいたときに抱いた感想である。しかし三作目の「虹」の結末に読み至るに及んで、「佳品である」などという乙に澄ました感想など引っ込めざるを得なくなった。そこには予想もしない恐るべき結末が書きつけられていた。
 タミエという幼女に作者黒田夏子幼年時代を重ねて読むことは許されることだろう。というか、むしろそれ以外にこれらの小説を読解する手段はない。
 「abさんご」もまた作者自身の経験を基にしているのであるが、それによると母が病死したのは作者が四歳の時のことである。タミエ・シリーズは、タミエが二歳半から「小学校に上がるか上がらないか」の頃、すなわち六歳くらいまでの時期としているが、タミエの世界には母が死んだということの反照は一切ない。そもそも父はもとより家族というものが一切姿を見せない小説である。ただ一人、何の予告もなく突然現れる弟「カッチャン」を除いては。
 「毬」は昭和三十八年に読売短編小説賞を受賞している。審査委員は丹羽文雄で、このとき作者は二十六歳。他の二編もだいたい同じ時期に書かれたものと思われる。大学を卒業して二年間勤めていた国語教師の職も辞し、おそらく創作に専念していた時期なのであろう。黒田はこのあと七十五歳の早稲田文學新人賞受賞まで延々半世紀も沈潜する。短編小説賞受賞という形で、波間からわずかに背びれのきらめきを見せただけで。
 「abさんご」に私は、凶悪なイオカステの影を見出した。エディプス崩壊していくそのエディプスの母にして妻たるイオカステである。タミエ・シリーズという若書きの小説の、その背びれのきらめきに凶悪さを感知したとき、私は自分の予感が正しかったことを知ったのだ。

 クリスティアーヌ・オリヴィエの「母の刻印 イオカステーの子供たち」は、女性の精神科医の手になるエディプス解明の書物で、同時にフロイトの言説を男性中心主義の産物として退けるものである。フロイトは父―母―息子の三角関係からエディプス仮説を構築したが、父―母―娘の関係については、それに準ずるとして済ませている。ユングは娘のケースを別立てとして「エレクトラ・コンプレックス」の概念を提唱したが、フロイトはその説を採らなかった。しかし晩年、ようやくそこに疑問が兆し、フロイトは「女性は何を欲望するのか」と自問したという。
 オリヴィエはひとつの疑義を呈する。エディプスはなぜ父であるライアス王と息子エディプスとの相克としてのみ語られるのか。その母の名イオカステを忘却せしめたのは誰か。あるいは単に欲望の対象の位置に貶めたのは。
 オリヴィエはイオカステを欲望の対象としてではなく、欲望の主体足らしめるべくその復活を要求する。
 象徴界の主たる父と息子に比して、女性―母と娘とは想像界にとどめ置かれる。言語とはまた父権制社会における男性の言語であるからだ。それでは女性解放とは女性もまた象徴界に参与することを要求することなのだろうか。
 オリヴィエが要約したエディプスの負の連鎖は次のようなことである。

 「男性を抑圧せず、女性を欲望する」まだ見ぬ<母>との再会の幻想に導かれて結婚する−しかし<母>と再会できるのは夫だけである―妻は欲望の不在を埋めようとして愛されることを熱望する―夫は「ふたたび閉じ込められるのではないかという不安」に襲われ、家庭の外に逃げだす―母親だけが子供の教育者となり、子供の無意識は<母>との関連においてのみ構造化される―結果として息子たちを女嫌いにし、娘たちを誘惑者にする―女嫌いと誘惑者が<母>との再会の幻想に導かれて結婚する―
 
 一人の男性として思い当たるフシは多々あるが、こと日本の場合で言うと「良妻賢母」幻想の崩壊のあと、男性は気を取り直して「イクメン」として普通に育児に参加するところに来ている。エディプス連鎖は現象的には解消され、まだ「父性」に支えられたものとしての「母性」をベースとした「家族」幻想はかつかつ維持されている、というところだ。そしてオリヴィエのような攻撃的なフェミニズム言説もそれとともに後景に引っ込むことになった。日本人の「去勢」の不十分さ、情緒的、鏡像段階的心象は、ともかくも「家族」の維持にはプラスに働くのだ。現在の、そのようにして育てられた子供たちが、先々、過酷な象徴界たる実世界に十全に伍していけるかどうか、という問題は残るにせよ。
 さて、そのような世の動きとは常に一線を画した世界に生きてきた黒田の場合はどうなっているのだろう。黒田は早くに母を失い、そして父を第三者に奪われたという経験を強いられた女性である。このような境遇下ではエディプスは起動しないのだろうか。それとも、横滑り的に後妻の位置を掠め取った、例の「家事手伝い人」の女性の出現により、<母>はそのより本源に近い形で―欲望の主体として―表れ、通常以上の強度で黒田を襲ったのだろうか。
 タミエ・シリーズの「タミエの花」が読解の手がかりになるかも知れない。これと、「abさんご」の第十二章<草ごろし>との関連が。両者の関連についてはすでに池田雄一氏が「すばる」の書評で触れているが、両者は対として捉えられる作品世界である。また<草ごろし>の章は蓮實重彦が十五章中、最もすばらしいとしたものである。私にとってはまた、<草ごろし>は一番難解な章だった。一読、二読三読しても、まだ意味が良くつかめないでいたのだ。
 「タミエの花」は、六十近くもの植物名が出てくる小説で、それとは別にタミエが勝手に命名した植物名も出てくる。タミエは、学校をサボって寺の裏山でそれらの草花と親しんでいる時、フィールド研究家風の男と出会う。目に触れる草花の正式な名称を教えてくれるその男に、タミエはあくまでも自作の名称を譲らずに主張して対抗するのだ。そしてそのとき山ではまだ咲く時期ではなかったがタミエが一番好きな花、「テンニンゴロモ」と美しく名づけられていたその花は、男によって「シャガ」という正式な名称を示される。かくて、タミエの世界から何か大切なものが奪い取られた。

 「単に感覚的博識ともいうべき己の世界に比べて、男の世界には地図があり帳面があり、みんなとの協定みんなの支持があるという堅固を確実を安定を、ひしひしと感じさせられてきたタミエにとって、いま泪まみれで庇うべきいとしくももろい自分の世界は、凝って集まってあの花となり、繚乱とタミエを充たしていた。」

 タミエは結局、男との別れ際に、「シャガ」という名前、「シャガ」が「シャガ」である世界を受け入れる。
 タミエは、独自に命名するという方法で、それまで男に独占されていた言語世界を奪還し、そのことで象徴界のトバ口に立っていた。そしてそれは当然のごとく挫折する命運にある。
 一方の<草ごろし>はどうだろう。
 多分に、タミエが逍遥した寺の裏山に続くのであろう、一本の草道。それが周辺の宅地開発により、普通の整地された道路に変わっていく。同時にかつては野菜なども植えられていた家の庭が、かの「家事手伝い人」の同居と共に荒廃していくさまが描かれる。かつて草々が生い茂り秘密と驚異に満ちた場所であった庭の荒廃。その荒廃を見かねて「草ごろし人」を入れて、「あるとわかっているものしかない庭」にしてしまう。やがてその庭から「私」は立ち去っていくのである。
 ここでは、「タミエの花」は完全に滅失している。ウブゲハコベカタクリマブシ、テツドウグサ、グルグルソウ・・・。かつてさまざまな名前で呼ばれていたそれらの草花は、今は無機質に「草」と呼ばれるだけである。
 「abさんご」全体がほぼ草花名を排除する小説である。それらはたとえば「小菊」と呼ばれ「秋草」と呼ばれるだけだ。「ききょうとなでしこ」とあるからオヤと思うとそれは、その模様を入れた平絽を指しているという具合だ。しかし、かつての「タミエの花」の残照が唯一この<草ごろし>の章に残されている。この章に、この章だけに「雪白極小花」という、かつてのタミエの命名に類する名前が使われているのだ。かくて「タミエ」の痕跡をひそかに隠しながら、かつて参入しかかった象徴界から撤退を余儀なくされたことを受容し、それでもやはり「シャガ」<菁莪>の世界に入ることは拒否する、ということが示される。それはまた「花鳥風月」の世界での安息を否定することでもある。

 黒田夏子の境遇は、エディプスを無化するより、やはりエディプスを強化したと考えたほうがよさそうだ。そしてそれはフロイトからマルト・ロベールへの移行という形で表される。
 マルト・ロベールはその「起源の小説と小説の起源」で、「エディプス的私生児」と「捨て子」という類型を提唱した。たとえばあらゆる作家はこの二類型に分類されると。
 「(エディプス的)私生児」とは「父」の否定であると思われる。そして「捨て子」とは「父」も「母」も否定し去ることだと。しかし、いずれもつまりは「エディプス」を否定すると見せて、実はそれをに更新する方法なのだ。おそらくは想像力というものを復活させるために。
 タミエは「捨て子」である。おもちゃ屋の店先から「毬」を盗んだり、平気で学校をサボって野山を逍遥したり、という彼女の行動がそれを示している。なによりもこの幼女の心象世界には父も母も現れてはこないのだ。
 「虹」。タミエは虹を見たいと切望する。彼女は虹を見たことがないと思っている。しかし、彼女は実は虹を見ていた。見ていながらそのことを意識から消し去っていたのだ。
 「タミエの花」が<草ごろし>に照応しているように、「虹」は「abさんご」の第十三章<虹のゆくえ>に照合していると思われる。<虹のゆくえ>の虹は青い虹、すなわち「足もとからひかりにげる青い虹のような小爬虫類」である。トカゲに出くわしたら急いで親指を隠さないと親の死に目に会えないという言い伝えを、「私」は恐れる。「私」は母親の死の定かな記憶がなく、一方で父の死に目に立ち会えなかった。かくて虹と死とは結びつけられる。虹、そして死。虹はなぜ忘れられていたのか。死はなぜ忘れられていたのか。
 「abさんご」を私は「私」を去った「私小説」と呼んだ。そしてそこから「私」以上のより強固な個体が立ち上がると言った。その個体とは何か。
 クリスティアーヌ・オリヴィエは言う。「我思う、ゆえに我あり」、この言葉は女性に敬意を表するなら次のように変形しなければならない。「我は気に入られる、故に我あり」、と。しかし、これはオリヴィエにとっては脱却すべき欲望の対象としての、その限りでの女性のことに過ぎない。
 「我思う、故に我あり」、これはライアス王だ。エディプスはどうか。
 それは「我殺す、故に我あり」になるのだ。それではイオカステはどうか。
 フロイトは迷う。「女性はいったい何を欲望するのか」。女性の復権のために、夫ライアスの言明ではなく、わが息子にしてわが夫、エディプスの言明を、イオカステは模倣するのか。「我殺す、故に我あり」。しかし、タミエは虹とともにその記憶を消し去ってしまっていた。エディプスが自らその目を突いて、この世から永遠に光を追放したように。しかし、その虹の記憶が青い爬虫類とともに足もとにあらわれるとき、何が甦るのか。

 スラヴォイ・ジジェク「厄介なる主体」の柄谷行人による書評によると、デカルト的主体は、コギトに男性的な支配を見いだすフェミニストを始めさまざまなポスト・モダニズム陣営から攻撃されてきた。ハイデガーは、デカルト的主体から「存在」に向かったとされた。しかし、デカルトこそ、懐疑を決行する前に発狂する危険に備えていたのである。ハイデガーを待つまでもなく、デカルトのコギトは存在の裂け目から来ていた。

 「虹」はこの「存在の裂け目」を垣間見せる、禍々しいほどの傑作である。
 私は、この小説の結尾に、三島由紀夫の詩「凶ごと」を想起した。

 私は夕な夕な
 窓に立ち椿事を待った
 凶変のだう悪な砂塵が

 夜の虹のやうに町並みの
 むこうからおしよせてくるのを

 「象徴界」への権利だって ? 愛とは「想像界」への道を逆にたどることだって ?
 いや、これは「現実界」なのだ。
 本当は人間には触れえぬもの、恐るべき人間の「現実界」の姿に、ほとんど狂気のように獰悪な虹の力を借りて触れえたとき、わがか弱きエディプスは凶悪なイオカステの姿を前にして立ち竦んだ。そして、文学としてこれは傑作だと証言する追い詰められた証人ではなく、この小説を断罪する小心な検察官のほうになりたい、という欲望がかすかに兆した。
 しかし、実際のところ、我々はこの傑作と共に生きるしかないのだった。