佐川君からの手紙  唐十郎

 犯罪者との交流を通して作られた小説、と言えばカポーティーの「冷血」を想起するが、こちらの小説は「冷血」とはおよそ正反対の手法で書かれている。唐十郎は「パリ人肉事件」というおどろおどろしい事件を題材に、あたかも彼の本業のゲリラ的演劇興業の恰好の題目を得たかのように、欣喜してこれと戯れているだけである。カポーティーも、犯罪者当人たちとは非常に狡猾な位置取りをした上で、「冷血」を書いたが、それでも一定の誠実さはあった。唐にはその誠実さは一片もない。そもそも映画化するための脚本を頼まれた唐が、佐川と三ヶ月間文通をした上、結局「脚本」ではなく佐川の望まぬ「小説」というものにしてしまったのだから。佐川が小説化を望まなかった理由は知らされていないが、それは明らかであると思う。文学修士たる彼は、この事件を小説化するのは自分しかいないと思っていたのである。彼は二年後自ら「霧の中」という手記を書いた。
 持論の「特権的肉体論」を体現するような被害者―ルネを、特権的肉体とはほど遠い佐川が滅ぼすということに、唐がいたく興味を惹かれたのだろうが、出来上がったのはただ遊戯的と言うしかない「小説」である。この遊びを肯定できるかどうかが評価の分かれ目となるが、およそ人間の尊厳を損なうようなこの犯罪を遊びの対象として良いのかという疑念が萌す。その犯罪が日本人の白人に対する歪んだ性的コンプレックスによるものであればなおさらである。日本人がこの小説に「芥川賞」というお墨付きを与えたり、後に佐川がくりひろげる芸能界的パフォーマンスを享楽したりすればするほど、日本人であることの惨めさがいや増すような気がする。読後、残ったものはこの小説に対する嫌悪感であり、それは佐川の病的な容貌と、そしてなぜか佐川に似通った気味悪さを見せる著者の肖像への嫌悪感でもあった。健康な肉体は悉く滅び、病者だけが生き残っている。
 確かに、どのような猟奇的犯罪も人は娯楽として楽しむことができる。しかし、仮にもこれは「文学」として提示されている。そうだとすれば、世界の中に放り出されている人間という存在―このような事件の加害者にもなれば被害者にもなりうる者―に一定の認識の強度を与える、というくらいの文学の効用は見せて欲しい。あるいは吉行淳之介の言うが如くこの小説がダダイズムの発露であるとすれば、ダダとはその運動自体の運命が辿ったのと同じく、生を一過的に蕩尽してみせることの謂いに過ぎない。ここには文学的、社会学的考察の一片もない。あるのは紅テントでのアングラ演劇の如く、祭りの日の見世物が当て込んだ物見高い人間の好奇心に、人間の水準を引き下げて喜んでいるだけの下らないパフォーマンスだ。
 社会的な見地からこの佐川事件を見れば、この事件は理不尽なことだらけである。最初の理不尽な事態は、裁判における過誤によって佐川が実刑免除になったことであろう。社会的名士たる佐川の父が高額の報酬で雇った弁護士フィリップ・ルメールの力もある。また取調べの際に「昔、腹膜炎をやった」という佐川の発言を通訳が「脳膜炎」と誤訳したこともある。そのために精神鑑定が要請され、結果、心身喪失状態での犯行と判断された。佐川は不起訴処分となったのである。彼はフランスの精神病院に一年二ヵ月、帰国して日本の病院にも短期間入院したあと、社会復帰した。ここまでは裁判というものに付き物の理不尽さであるが、その犯人が日本で虚名を流しもてはやされたというのはまた別の理不尽さである。彼は「作家」となり、宮崎勤の事件が起こると猟奇犯罪の理解者としてマスコミの寵児となった。月刊誌や夕刊紙に連載を持ち、十冊以上も本を書いて印税を稼いだ。講演やトークショーにも出演し、またポルノ映画にも出演したのである。
 しかし、何と言っても唐十郎のこの「小説」が芥川賞を受賞したことが最大級の理不尽である。犯人がテレビに登場し、面白おかしくふざけまわるというだけで、遺族には耐え難いことであるが、その事件を不誠実に書いた小説が、日本で権威ある文学賞を与えられた、ということはそれにもまして耐え難いはずである。沖縄の米兵による少女強姦を、アメリカで笑劇のネタにされたら、あるいはそれを同じような手法で小説化されたものが、アメリカで社会的評価を受けたら、日本人はどのように感じるか。たとえそれが、この小説を最大限持ち上げた大江健三郎の評にあるが如く、「現実の出来事を引金にしながら、感覚的、知的に高い水位の幻想をくりひろげ」たものであったしても。日本で、恰も尻軽女のような扱いを受けもした被害者ルネ・ハルテヴェルトの鎮魂はいったい誰の責務なのか。かつて「犯罪者」永山則夫の文芸家協会への入会が認められなかったことと共に、いやそれ以上に、作品そのものが「犯罪」であるこの小説の受賞は芥川賞の汚点であるだけでなく、日本文学史上の汚点である。

第88回
1982年後期
個人的評価★★★★★

カイ 
 作者のたくらみは、徹底した演劇性につらぬかれて、現実の出来事を引金にしながら、感覚的、知的に高い水位の幻想をくりひろげる。対話と手紙の呼び掛けによる進行はわが国の文学に新しい刺戟を与える独自さのものだ(大江健三郎)
 「黄色い小人が白い大きな女を喰った」という事件は、唐氏にダダ(イズム)風な刺戟も与えた筈である。(中略)俗な言葉でいえば、死体までの遣手(婆)をメインにして、虚と実の境目でうまく遊んだといえる作品である(吉行淳之介)

ヤリ 
 話の筋には論理性がなく、登場人物は存在感を欠いている。文章は奇態な言いまわしが多く、言葉の選び方は妙によじれていた(丸谷才一)

 丸谷氏は10月13日逝去された。享年87歳。合掌。