徳山道助の帰郷  柏原兵三

 現実とぴったり何の過不足もなく重なり合っているような言葉で書かれた小説。不足するところがないのはいいが、余るものもないというのは物足りない。無名の人に焦点を当てるものとして鴎外の史伝の系列に繋がるものか。三島由紀夫は「鴎外まがいの文体」と称したそうだが、やはり鴎外の史伝を想起したのだろう。全編を読んでみると、しかし鴎外の印象は消えてしまう。保健所に捕まった犬が周囲の雄犬に「輪姦」されたことから、日中戦争時の日本兵の性犯罪を思い出す。このあたりが印象として突出するので、前半の長い淡々とした半生の叙述とのバランスがおかしくなる。つまり全く構成的ではない。舟橋聖一はこの小説が「反戦的」でないことに不満を示し、大岡昇平は戦意を欠く陸軍中将の存在に疑義を呈する。こと戦争をめぐってはこの小説の評価は360度全方位に拡散している。しかし南京事件の叙述も出てくるのに、この時点ではそれはそれほどナーバスなイシューではなかったようだ。解説を読むと本作の初稿は新潮の編集者に「叙述全体を蔽っている無神経と鈍感は如何ともし難い」と言われた由である。こんな評価を受けたらもうそれで世に出る目はないようなものだが、それでも彼がドイツ文学者でヨーゼフ・ロートの翻訳の実績もあるところから、編集者は面倒を見る気になったのだろう。

第58回
1967年後期
個人的評価★

カイ  在来のリアリズムの常識を破った作者のしずかな姿勢は、強い個性の現われ(中村光夫)
ヤリ  自然の流露感や内的必然性がなく、若隠居みたいな気取りの見えるのが残念(三島由紀夫)

 藤子不二雄Aの漫画「少年時代」は柏原の小説「長い道」が原作らしい。小説は柏原の富山疎開時代に受けたイジメ体験がモチーフらしいが、漫画およびその映画化作品はともかく、井上陽水の主題歌となると、もはやそこに「イジメ」というものは片鱗すらなく、なんとなく無垢な少年時代の追憶として昇華されている。「誤配」というものの一例を見る思い。