アサッテの人  諏訪哲史

  ドタバタ漫画を連想させるタイトルで、すわ東海林さだお菊池寛賞を取った勢いで、純文学に乗り込んできたのかと思ったが、豈図らんや、読んでみれば、笑えないこともないが基本的にはマジメな哲学的思弁小説だった。いわゆるメタフィクションということになるが、この小説のメタは、昔の小説の技法にも似通っている。すなわち冒頭で、「私」が偶然入手した文書を、何も手をくわえずそのまま以下に記す、と断って本編に入る、という方法。あるいは行きずりの人からたまたま聞いた話をそのまま書き記した、とするもの。この方法で作者は小説の内容に無答責となる。本作でも、小説の未完成の草稿とすることと、叔父の日記とすることで、「アサッテ」部分の不全性に対して、あらかじめエクスキュースを設定している形だ。
 こういう実験小説が、その作品的価値についての疑念に思いわずらうことなく、とにかく区切りのつくところまで書き進められるためには、一種の時期的な僥倖が必要なのだろうと思う。ほとんど作者の病歴を聞かされているような、本作の後書を読めば、この僥倖の内実を知ることが出来る。著者は恩師(種村季弘)のためにこの小説を書き、その恩師に褒められるとそれで事足りて創作への情熱を失う。その恩師と父を相次いで失ったあと彼は躁鬱病を発症するのである。その病からの快癒の過程で、あるいは快癒するために、彼はこの小説の発表とそして受賞とが必要だったのだろう。彼は同じ後書きで、メタフィクションという指摘に対する手厳しい反論(メタフィクションとは世界の構造そのもののことだという、言われて見ればその通りの論)も出来るくらい「健康」になった。そのような経緯の元に生まれたこの小説は著者にとっては「白鳥の歌」であるが、しかしいい小説かそうでないかという点から言えば、残念ながらいい小説とは思えない。思考の深度は深く文学の正統性も受け継いでいるが、これでは哲学を「お話」に薄めた「ソフィー」ものの一つにしかならない。言葉による酩酊や陶酔は哲学書からも得られる。しかし言葉による悦楽が欲しいとき赴く先は文学しかない。文学に、というより小説には悦楽がなければならない。苦悩ですらも享楽できるほどの言葉による悦楽が。でも、「ポンパ」、ではね。

第137回
2007年 前期
個人的評価 ★

カイ 哲学的な英雄譚(池澤夏樹)
ヤリ 所詮観念にすぎない思考の遊び(宮本輝)

 「アサッテの人」の現実的態様は、授賞式の受賞者スピーチで、細川たかしの「心残り」を熱唱したという諏訪哲史その人であろう。彼は夜の二次会でも「だいたひかるネタ」(?)を披露するなどして奮闘したらしい。(http://www.webdoku.jp/newshz/ohmori/2012/02/06/140859.html)小説世界から照してみればこの程度のことはせいぜい昨日今日に類する逸脱であるが、「慎ちゃん」「輝ちゃん」(トヨザキ社長同様、親愛の情をこめてこう呼びたい)には十分「アサッテの人」の所業と思えたのではないか。