夜と霧の隅で  北杜夫

 ユーモア作家北杜夫が、実は正統的な筆力を有する作家であることを証かす作品。その筆力の中身は、①医学の知識②西洋史の知識③ドイツ人にドイツ的な冗談を言わせられるだけの人文教養、というようなところか。
 ナチ政権に抗して、「生きるに値しない生命」(Lebensunwertes Leben)たる精神病者の治療に取り組む精神科医という、ナチスの時代になおも見出せる「人間性」を発掘した小説であるが、しかし、その治療自体(脳外科施療及び薬物治験治療)は、あたかもそれが別種の迫害であると思わせるほど残虐であることを知る。
 それにしても、文学者は歴史的叙述に何を付加するのだろうか。あるいは歴史的叙述をどう変質させるのだろうか。香気ある抒情というものだろうか。それだけでは足りない。全く足りないと思う。
 このような惨事を、舌なめずりするように凝りに凝った美文で書くこと。惨事に対する日本人の尚も審美的な態度。この審美性の由来するところは一体何なのか、考え込まされてしまう。確かなことは、この小説を書いた北も、この小説を芥川賞の授与という形で顕彰した日本の社会自体も、つまり我々日本人が、世界の悪意、というものに本当には触れえていない、ということである。

第43回
1960年前期
個人的評価★

カイ 設計も建築もしっかりした建物を見るような感じで、少しの危なげもない(石川達三)
ヤリ 手法も文章も極めて平凡である。題材に対する対し方もまた平凡だ。(井上靖)