この人の閾  保坂和志

  小説の実作のみならず、小説制作の指南書も書いている保坂の、「小説におけるアナキズムの実践」等々の言説を見ると、彼の小説が、文学史というものを踏まえているものだということはわかる。確かに文学史的には彼が小説というものの一応の先端にいるのは確からしい事実である。それだけに彼の小説がつまらないというのは困ったことである。文学理論だけが先行している小説がつまらないのは、何も彼に限ったことではないけれど。
 本作も、37歳の男が、昔のクラスメイトの家に遊びに行き、たわいのないおしゃべりをしながら二人で庭の草むしりをする、というだけの話なのだ。本作と賞を競って落された車谷長吉が「薬にも毒にもならない小説」と唾棄したのは、何も落された恨みからだけではない。小説/文学は毒であり薬である、という一時期確かにあった文学観から見れば、この小説は非文学の最たるものということになる。それに、自らチェーホフカフカの系に属すると称する保坂が、どうして「いまここに自分があるだけで十分」という感覚をよしとするのか不可解である。その「いまここにある自分」の外部に着目するのがチェーホフカフカの両作家ではないか。欠落を持った人間が作家となり、同じく欠落を持った読者に読まれる、というサイクルが終焉しているのは確かだが、だからと言ってそこに「自足教」が忍び込んでくるのは、曰く言いがたい不気味な光景である。世界中の人間が保坂の小説の人間のようになれば、確かに犯罪も戦争も起こらない世界が現出するだろう。しかし、そのとき幸福や平和は「死」と同義語になっている。この、死に限りなく近い幸福が、敗戦後の日本のなし崩しの死を露わにしているように思われて、それが江藤淳の激怒を買ったのだ。それもこの作品を推した日野啓三に言わせれば、「バブルの崩壊、阪神大震災とオウム・サリン事件のあとに、われわれが気がついたのはとくに意味もないこの一日の静かな光ではないだろうか」ということになるけれど。しかし、いずれにしろそれは何ものかに敗北した人間が往々にして赴く、心理的な隠蔽を代償としての、偽りの安息に過ぎない。 
 それを愛する読者がいる限り、このような何も起こらない小説を書くことは一向に構わない。しかしそのような小説の制作を、指南書を書いて他に教導し始めるのに及ぶと、それには抵抗を感じてしまう。「書きあぐねている」くらいなら何も起きない小説でも書いたほうがマシというような教説を広めることを首肯できない。「ネバー・エンディング・ストーリー」で虚無と戦ったアトレイユの如く、自分も保坂的世界の蔓延と戦うことにやぶさかではない。しかし、無視する、という手もあるか。

第113回
1995年前期
個人的評価★★

カイ
 互いに異性意識から全く解放されていて、そのために却って男が、女が、どこまでも自由に―つまり、豊かに、鋭く、描出されている。男女共学の収穫の達成を想わせる人たちの創造に成功した文学作品が、遂に出現した(河野多恵子)
ヤリ 小説のなかに生の人生を切り取つて貼付けたとて、それが小説家の手柄なのかしら(丸谷才一)

 河野多恵子の文学とは男女共学でなかったことの恨みに発するのかしら。
 どうせ傲岸なナニサマによる傲岸な短評なのだから、以下の感想も記しておこう。つまらない小説を読まされた腹いせのためか、保坂の顔が、村上春樹をクシャッと丸めて捨てたような顔に見えて仕方がなかった、と。