小さな貴婦人  吉行理恵

 多分、彼女の詩を読んでも得るところは何もあるまい、ということを知らしめるに足る散文。兄としての淳之介が「分りにくい。行分けでもしたらどうか」などと評しているのは微笑ましい。彼女が1975年、「針の穴」で、初回候補になったときは、淳之介は「私は棄権した。この作品の長所短所を述べるのは易しいことだが、やはり差しひかえる。」として身内という立場から審査を棄権したのに、今回は審査に参加しかつ賛成票を投じている。どういう心境の変化だろう。曰く「私の実妹なので、銓衡委員としての立居振舞に困惑した」「今回の作品はなかなか良いとおもった」「今度はひとつ、自分なりに客観的になって、票を入れてみようと考えた。十五歳年下の妹というのは、他人のようで他人でない厄介な存在だ。」「もはや病膏肓、猫が自分か自分が猫か、猫の人相学や手相まで出てくる始末で、ここまでくれば許せるとおもいはじめた」と。

第85回
1980年前期
個人的評価★

カイ すでに中年にいたって、自他の自閉的な狂気に接する(しかし正気の側の)感受性を、このように安定した書きぶりで表現できれば、その人はもう作家だ(大江健三郎)
ヤリ 詩人としての繊細な感覚には心をひかれましたが、すこしごたごたしてます。もたついた分だけ、小説が弱くなっていると感じました(丹羽文雄)
 
 
 
 小谷野敦氏に拠ると、吉行淳之介江藤淳から「文壇の人事担当常務」と言われたのは、彼が大学に入学した頃だそうで、だとすると丁度この頃のことになる。人事権というのは組織内における最大の権力であるが、人はどのようにすれば文壇の「人事権」を握れるのか興味深いところである。江藤の発言はおそらく半分以上冗談だろうが、それでも吉行という、どう見てもオシの強そうでないタイプがそのようなポジションを占めていた、というところを面白く思う。一方、金井美恵子に拠れば、彼女は本を書く前から淳之介に「泉鏡花賞」をくれると言われていたらしい。金井の同賞受賞は1979年である。やはり文学賞の審査委員になることが、人事権を得ることの捷径なのか。淳之介は谷崎順一郎賞や野間文藝賞など生涯で八つの審査員を歴任した。もっとも審査員になるためには自身もその賞を得ているかあるいはそれに相当する実績が必要だろうから、それだけの実力を持ち、かつ他人に関心があるということが担当常務たる要件だろう。
 小林秀雄が晩年に「才能がモノを作るなどということを、もはや信じられぬ」という意の発言をしていた。これを、才能がモノを作るのではない、何ものかによって作らされているのだ、という意味に取るより、どの作品が世間に一定の位置を与えられるかは人間関係の中で決まっていく、という風に受け取ること、多分に曲解であろうこの解釈の方を私は好む。審査員としての吉行の公平さを疑うわけではない。その公平さはしかし身近な人間関係のくびきを脱していない。そして、結果的に文学史的にさしたる意味を持たない作品に賞をもたらしてしまった、ということは否定できないだろう。
 日本の外交官試験というものは、国家公務員資格試験に統合される前は独立してあり、その審査員はすべて現役の外交官であったという。彼等の子息が受験すれば自動的に合格し、一族代々外交官になれた。この仕組みが日本の外交の劣化をもたらしたのは間違いない。それに較べたら文壇内のちょっとした身びいきなど無害なものだ。韓国の極端なネポティズムはいずれかの国を滅ぼすであろうが、日本にはその心配はない。