当選の研究

  第147回までの受賞者151人中、初回の候補でそのまま受賞できたという人は75人、ほぼ半数にのぼる。これは、芥川賞作家という才気は、謹厳実直に努力を積み重ねた末に徐々に世間に現われるのではなく、爆発する新星の如く、突然、世界の地平線上に姿を見せるべきである、という願望に叶う光景であり、才能というものの発露であるべき芥川賞にとってふさわしい光景のように思われる。一方で芥川賞という不条理な「門」をくぐるために、何年もその門前に佇むことを強いられ、報われる保証のない忍耐を強いられる運命の人たちもいる。残りの半数の76人は二回以上、数次の候補を経ての受賞だ。その人たちはいくたびか「門」を訪うことにより、ともかく「門」をくぐりえたのであり、ついにくぐれなかった人たちとは運命を異にする。くぐりえなかった人たちにとって最も残酷な言葉、―この門はおまえのためにあったのだ―という言葉を門衛からかけられ、狂死した人たちもいたことだろう。
 候補になることの最多回数は木崎さと子のそれで、彼女は六度目の候補でようやく受賞している。第84回から第88回まで連続五回候補になり、受賞したのはそれから二年の間をおいた第92回である。五回も入門を拒まれたにもかかわらず、諦めずに二年後に再び門を敲き、そしてその時なぜか門は開いたのだった。多田尋子、なだいなだ、増田みず子、阿部昭、そして島田雅彦には決して開こうとしなかった門が。なだいなだなどは、足掛け七年半もかけてこの門を叩き続けたのに。
 候補五度目で、というのは直近の田中慎也など六名。この中で野呂邦暢の当選の経緯が、島田雅彦の落選の経緯と対照的で面白い。野呂の受賞に至る経緯は、日本ジャーナリスト専門学院編集になる「芥川賞の研究」という本でも触れられている。それによると野呂の場合、悉く有力な対抗馬に賞を持っていかれ、また二名当選が連続して続いたあおりを受けて落選にされたこともあるらしい。詳しく言えば、1966年後期の第56回に初候補になったが、このときは最年少記録を更新した丸山健二の「夏の流れ」に賞が行っている。続いて第57回は大城立裕の「カクテル・パーティー」いう重厚な作品が出て、それに持っていかれた。それから五年半後の第68回、野呂は三度目の候補となり捲土重来を期したが、この時も山本道子「ベティさんの庭」、郷静子「れくいえむ」と女性作家二人に取られた。この辺は実力といえば実力なのだろうからまだ納得が行くが、問題なのは次の第69回である。この回は三木卓の「鶸」が受賞したが、野呂の「海辺の広い庭」も有力な候補作だった。多くの選者がこの作品にも好意的なコメントを寄せており、「鶸」との二作受賞もありえた。しかし不幸なことにこの回まで連続三回、二名受賞が続いている。67回の李恢成「砧をうつ女」、東峰夫「オキナワの少年」、68回の畑山博「いつか汽笛を鳴らして」、宮原昭夫「誰かが触った」。芥川賞の不文律として三名受賞はないという事は確立しているが、二名受賞は微妙である。いずれをも捨てがたく文句なしの二作受賞というときもあれば、二作抱き合わせで一本のような便宜的な受賞もあるが、あくまで二作受賞は例外という位置づけであるらしい。前記「芥川賞の研究」に収められている植田康夫芥川賞裏話」によると、この時二作受賞は避けたいという「気分」が選考委員会に蔓延していたとされる。ゆえに二作の決戦投票となり、野呂は四たび苦杯を舐めることになった。かくて四回連続の二人当選は避けられたものの、次回第70回でようよう野呂が受賞したのは、単独の受賞ではなかった。森敦の「月山」との二作受賞だったのである。もし森敦がその経歴や年齢などの点で芥川賞にふさわしいかどうかの議論がなされなかったら、つまり、森にも授賞するが、あくまでも新人のための賞であるという体裁を維持するためにもう一人、という流れにならなかったら、またもや野呂の受賞が見送られた可能性もあったのだ。最終的に受賞できた人たちにとってはまだしも、芥川賞の選考基準のあいまいさで賞の行方が左右されれば、候補者の胸は焼け胃腑は酸食される。木崎も野呂も受賞で報われたが、一人の受賞者の背後にそれに数倍する痛めつけられた臓腑が存在している。芥川賞が新人発掘の賞にとどまらぬ、日本で一番権威のある賞である以上、これからもそのような状況は継続していくだろう。
 芥川賞などたかが新人のための賞じゃないかと嘯く人もいるが、その新人のための賞が実質日本で一番権威のある賞である。ノーベル賞作家の名を冠した川端賞、大江賞はもとより、谷崎賞三島賞野間文芸賞、はては日本文学大賞すらも及ばない。なぜか。芥川賞設立当初には、ゴンクール賞ノーベル賞( ! )に並ぶ権威ある文学賞を日本にも作りたい、という希求が確かに存在した。「文學界」編集長の川崎竹一が、そのような権威ある文学賞を作って作家の育成をすべきだという提案をし、それを菊池が読んだことが同賞設置の動機になっているのだ。文学上のその純粋な希求と、菊池寛の、亡友を顕彰したいという友情と、自分の雑誌を売りたいという野心とが暴力的に結合して芥川賞が生まれた。その時、同時に直木賞が作られたことにより、芥川賞には「純文学」の聖痕がつけられた。さらに、第一回の太宰治事件で、太宰の病的な執着がこの賞に向けられ、賞はさらに聖性を帯びる。そのような原初の聖性付与の記憶を秘めつつ、一方で菊池の願いたる文学の商業的隆盛にもつながる道筋がつけられ、さらに発足から七十七年間の間に、受賞作家にまつわる幾多の伝説と物語が生まれた。ここに芥川賞芥川賞作家とは、物語によって祝福された商品、即ち特権的なブランドというものになったのである。他の賞に決定的に欠けているのはこの「物語」の効能なのだ。それに「純文学」の読者というものは、作家というものが原初から、即ち処女作から決定的に作家であり、年月の積み重ねによって作家というものに成熟するのではないということを、殆んど本能的に知っているのだ。
 それにしても菊池寛の友人が直木三十五芥川龍之介であったことは、なんという絶妙な配合であったことか。大衆文芸に冠せられる直木三十五の名は、愛されはするもののいつかは忘れられる運命を、純文学に冠せられる芥川龍之介の名は、孤絶の中で敗北していく運命を、それぞれ指し示しているかのようである