abさんご  黒田夏子

 「早稲田文学」新人賞掲載号の広告で、受賞作家―白髪の老女―の顔貌に触れたとき、時期的に言ってもこの人が芥川賞を取る、という予感がした。そうすると森敦が持っている最年長受賞の記録が大幅に書き換えられることになる。もともと2012年は団塊の世代が63歳〜65歳になる年であり、このボリュームのある世代が一斉に年金という一種のベーシック・インカムを得て、新自由主義的制約から幾分自由になる時期であるから、そこから新しい書き手が出、勢い記録も更新されるであろうことは予測していた。しかしまずは団塊の世代は頭を飛び越され、十年も年長のこの書き手が先に登場することになった。
 彼女は予想通り芥川賞候補になった。この時点で私は彼女の受賞を確信した。まだその作品は読んでいないが、芥川賞も75歳の老人を候補にしてから落すような無慈悲なことはしないだろうと思った。それに、聞けば早稲田文学選考委員の蓮實重彦が絶賛していると言う。かなり有望である。蓮實重彦芥川賞の選考委員ではないが、またあの「ひとりが多数」という現象(村上龍の項参照)が起こるかも知れない。
早稲田文学」の掲載号には<松田青子>という作家も作品を寄せている。私の中で彼女の名前と<黒田夏子>の名前とが交錯してしまい、彼女のイメージは黒とも青とも、松とも夏ともつかぬフシギなものになってしまっていた。そのようなことも、abという不確定な分岐の輻輳がもたらしたものかも知れない。
 どさくさにまぎれて舞城王太郎との二人受賞もありうるか、という何の根拠もない予想も持ちえたが、これは見事に外れた。これはしかし考えたら当然である。舞城の前衛ぶりなど、黒田の隣においたらその安易性がすぐばれてしまうのだ。黒田の作品には実軸と虚軸がある。それによって豊かな複素空間というものを現出している。それに較べると、舞城をはじめ世に言う前衛というものは、実軸を欠く虚軸だけの制作物になっているのが大半である。一方、二十代の勤め人によって書かれた直木賞受賞作は、未読であるけれど、思うに実軸だけの制作物なのではないのか。風俗を忠実になぞり、奇態な現代という時代の一端を覗かせるが、登場人物の誰もがデカルト座標軸のどこかにちゃんと位置取りが出来てしまうのだ。
 黒田の文学空間は複素空間である。そこではカタカナを排除するという和に向かうベクトルと、横書きという和から離れるベクトルとのベクトル差が基調になっている。この二つのベクトル、ひらがなの多用/カタカナの排除と、横書き/英字句読点とは、見事に読者から言語のパターン認識を奪うことに成功した。読者はどのページも、どの一行も読み飛ばすことができない。じっくり言葉と向き合うことを強いられてしまうのだ。
 この小説を「味わう」にとどまらず、それを「理解」しようと思えば、どうしても作中の言葉を一旦「普通」の言葉に置き換えてみなければならない。すると見えてくる話の骨格は以下のようなものである。

 早くに母親に死なれ、おそらく大学教授である父親と二人暮らしを送るが、そこに女性の使用人が入り込み、父娘の間を裂く。やがてその使用人は、父親の後妻のような立場になり、家を支配するようになる。―そのような生を送った女性―作家―のさまざまな記憶が綴られていく。
 
 読みにくい、分りにくい小説である。その困難は、端的には前記の表記の形態にある。しかしその表記を仮に通常の、標準的な表記に、―縦書きに直す必要はないが―直してみてもまだ困難は残る。その困難とは、自分の個的なエディプス経験を、出来合いの言葉で置き換えてしまうことの拒否に由来している。自分が追い込まれて行った心理の迷路と、そこから見える原初の光景とに、何かクリシエを与えることで、共生感を得てしまうことへの抵抗である。これこそがこの小説を文学にしている部分である。

 彼女の文体に、明確な、整合的な方法論があるのかどうか、一読した限りでは不明。カタカナ/外来語を排するといっても、それが「外来語禁止ゲーム」、つまりパソコンを電脳機械と称するようなことと大差ない場合もある。しかし、言語に何らかの制約を架すことによって、むしろ想像力が解放されていくこと、言語を拘束することで、心理に架せられた拘束の方が解除されていくという機微が存在することは確かなことのように思う。筒井康隆の「残像に口紅を」は、その言語から次第に使用可能な音がなくなっていき、ついにはゼロになるという(実験)小説だったが、この中で筒井は他の作品には見られないある真摯な告白をしている。明らかにそれがテーマではなかった、両親との間に愛憎の葛藤があったことが図らずもこの小説の中で明かされているのだ。言語の制約という環境の中でこそ、筒井のトラウマ体験が思いもかけない形で解放されたのだろう、と私は思った。自由に、無制約に語らせられることは、自らの破滅にまでつながってしまうかもしれないが、言語の制約は、その破滅の一歩手前で作家を救ってくれるのだ。

 これは「私」というものを取り去った「私小説」である。「私」というものを滅却したとき、これまであまりにも安易に語られ続けていた「私」は廃却され、それよりももっと強固な個体が立ち上がるかの様である。
 ところで「abさんご」って何のことだろう。読む前は「ab珊瑚」のことかと感じていたが、今は良く分らない。珊瑚でないのは確からしいが、それでは「参伍(いりまじること)」あたりのところか。「三五(まばらなこと)」か。

第148回
2012年後期
個人的評価☆☆

付記。黒田氏本人の受賞挨拶で、さんごとは珊瑚のことだと、ちゃんと言っているとのことです。そういえば珊瑚のcoralでabcとつながっていると、どこかで読んだ記憶が。それってどういうつながりだろう。急に自信がなくなってきましたが、小説本文には珊瑚のさの字もでてこなかったはず。文藝春秋発売後に再考する予定でおります。

論点

 ほぼ1年かけての芥川賞受賞作読破を通して得た、さらに考察するにたる興味を残す「論点」の主なものは以下の通り。
①「意味論」としての文学へ
②「ゴール・シュート」のない小説をどのように享楽するか
③OSの異なる小説とは「標準化」をめぐって戦わなければならない
④日本にはサリンジャー的小説ではなく、むしろアーヴィング的小説が必要だ
⑤「国木田独歩的転倒」にどのように応接するか
⑥観念的に硬直した文語と、柔軟に調整される口語と
⑦「セカイ」系小説としての純文学、「社会」にとどまる意志を持つ「非」純文学
ロマン主義自然主義との相克は、「設計主義」と「自生的秩序」との問題に帰結する
文学賞は、ジイドの「狭き門」ではなく、カフカの「掟の門」だ
  随時、考察を続けていきたいと考えてはいるが、難しすぎて私の手には負えないような気もする。

当選の研究

  第147回までの受賞者151人中、初回の候補でそのまま受賞できたという人は75人、ほぼ半数にのぼる。これは、芥川賞作家という才気は、謹厳実直に努力を積み重ねた末に徐々に世間に現われるのではなく、爆発する新星の如く、突然、世界の地平線上に姿を見せるべきである、という願望に叶う光景であり、才能というものの発露であるべき芥川賞にとってふさわしい光景のように思われる。一方で芥川賞という不条理な「門」をくぐるために、何年もその門前に佇むことを強いられ、報われる保証のない忍耐を強いられる運命の人たちもいる。残りの半数の76人は二回以上、数次の候補を経ての受賞だ。その人たちはいくたびか「門」を訪うことにより、ともかく「門」をくぐりえたのであり、ついにくぐれなかった人たちとは運命を異にする。くぐりえなかった人たちにとって最も残酷な言葉、―この門はおまえのためにあったのだ―という言葉を門衛からかけられ、狂死した人たちもいたことだろう。
 候補になることの最多回数は木崎さと子のそれで、彼女は六度目の候補でようやく受賞している。第84回から第88回まで連続五回候補になり、受賞したのはそれから二年の間をおいた第92回である。五回も入門を拒まれたにもかかわらず、諦めずに二年後に再び門を敲き、そしてその時なぜか門は開いたのだった。多田尋子、なだいなだ、増田みず子、阿部昭、そして島田雅彦には決して開こうとしなかった門が。なだいなだなどは、足掛け七年半もかけてこの門を叩き続けたのに。
 候補五度目で、というのは直近の田中慎也など六名。この中で野呂邦暢の当選の経緯が、島田雅彦の落選の経緯と対照的で面白い。野呂の受賞に至る経緯は、日本ジャーナリスト専門学院編集になる「芥川賞の研究」という本でも触れられている。それによると野呂の場合、悉く有力な対抗馬に賞を持っていかれ、また二名当選が連続して続いたあおりを受けて落選にされたこともあるらしい。詳しく言えば、1966年後期の第56回に初候補になったが、このときは最年少記録を更新した丸山健二の「夏の流れ」に賞が行っている。続いて第57回は大城立裕の「カクテル・パーティー」いう重厚な作品が出て、それに持っていかれた。それから五年半後の第68回、野呂は三度目の候補となり捲土重来を期したが、この時も山本道子「ベティさんの庭」、郷静子「れくいえむ」と女性作家二人に取られた。この辺は実力といえば実力なのだろうからまだ納得が行くが、問題なのは次の第69回である。この回は三木卓の「鶸」が受賞したが、野呂の「海辺の広い庭」も有力な候補作だった。多くの選者がこの作品にも好意的なコメントを寄せており、「鶸」との二作受賞もありえた。しかし不幸なことにこの回まで連続三回、二名受賞が続いている。67回の李恢成「砧をうつ女」、東峰夫「オキナワの少年」、68回の畑山博「いつか汽笛を鳴らして」、宮原昭夫「誰かが触った」。芥川賞の不文律として三名受賞はないという事は確立しているが、二名受賞は微妙である。いずれをも捨てがたく文句なしの二作受賞というときもあれば、二作抱き合わせで一本のような便宜的な受賞もあるが、あくまで二作受賞は例外という位置づけであるらしい。前記「芥川賞の研究」に収められている植田康夫芥川賞裏話」によると、この時二作受賞は避けたいという「気分」が選考委員会に蔓延していたとされる。ゆえに二作の決戦投票となり、野呂は四たび苦杯を舐めることになった。かくて四回連続の二人当選は避けられたものの、次回第70回でようよう野呂が受賞したのは、単独の受賞ではなかった。森敦の「月山」との二作受賞だったのである。もし森敦がその経歴や年齢などの点で芥川賞にふさわしいかどうかの議論がなされなかったら、つまり、森にも授賞するが、あくまでも新人のための賞であるという体裁を維持するためにもう一人、という流れにならなかったら、またもや野呂の受賞が見送られた可能性もあったのだ。最終的に受賞できた人たちにとってはまだしも、芥川賞の選考基準のあいまいさで賞の行方が左右されれば、候補者の胸は焼け胃腑は酸食される。木崎も野呂も受賞で報われたが、一人の受賞者の背後にそれに数倍する痛めつけられた臓腑が存在している。芥川賞が新人発掘の賞にとどまらぬ、日本で一番権威のある賞である以上、これからもそのような状況は継続していくだろう。
 芥川賞などたかが新人のための賞じゃないかと嘯く人もいるが、その新人のための賞が実質日本で一番権威のある賞である。ノーベル賞作家の名を冠した川端賞、大江賞はもとより、谷崎賞三島賞野間文芸賞、はては日本文学大賞すらも及ばない。なぜか。芥川賞設立当初には、ゴンクール賞ノーベル賞( ! )に並ぶ権威ある文学賞を日本にも作りたい、という希求が確かに存在した。「文學界」編集長の川崎竹一が、そのような権威ある文学賞を作って作家の育成をすべきだという提案をし、それを菊池が読んだことが同賞設置の動機になっているのだ。文学上のその純粋な希求と、菊池寛の、亡友を顕彰したいという友情と、自分の雑誌を売りたいという野心とが暴力的に結合して芥川賞が生まれた。その時、同時に直木賞が作られたことにより、芥川賞には「純文学」の聖痕がつけられた。さらに、第一回の太宰治事件で、太宰の病的な執着がこの賞に向けられ、賞はさらに聖性を帯びる。そのような原初の聖性付与の記憶を秘めつつ、一方で菊池の願いたる文学の商業的隆盛にもつながる道筋がつけられ、さらに発足から七十七年間の間に、受賞作家にまつわる幾多の伝説と物語が生まれた。ここに芥川賞芥川賞作家とは、物語によって祝福された商品、即ち特権的なブランドというものになったのである。他の賞に決定的に欠けているのはこの「物語」の効能なのだ。それに「純文学」の読者というものは、作家というものが原初から、即ち処女作から決定的に作家であり、年月の積み重ねによって作家というものに成熟するのではないということを、殆んど本能的に知っているのだ。
 それにしても菊池寛の友人が直木三十五芥川龍之介であったことは、なんという絶妙な配合であったことか。大衆文芸に冠せられる直木三十五の名は、愛されはするもののいつかは忘れられる運命を、純文学に冠せられる芥川龍之介の名は、孤絶の中で敗北していく運命を、それぞれ指し示しているかのようである

落選の研究

 前回受賞した鹿島田真希は実に四度目の候補での受賞であるが、芥川賞に数次候補になりながら結局取れなかった人たちの、候補回数の最高記録は六度で、該当者は五人いる。多田尋子、なだいなだ、増田みず子、阿部昭、そして島田雅彦の各氏。次点は五度で、これは川上宗薫黒井千次その他で総計九名。この中にはついに受賞できないまま自殺してしまった佐藤泰志がいる。そして四度となると二十四名もおり、その中で後藤明生吉村昭の二氏などは後に文名を高めたからいいが、この中にはやはり後年自殺した鷺沢萌や、惜しまれて交通事故死した山川方夫がいる。光岡明は四度の候補の後、直木賞に回った(江戸の仇を長崎で―芥川賞が取れず直木賞復権した作家は、角田光代車谷長吉佐藤愛子立原正秋壇一雄山田詠美渡辺淳一など十五名を数える)。次の三度―つまり三度目の正直にもならなかった人は四十五人。二度となるとこれは多すぎて数える気になれない。
 さて、候補になること六度という最高タイ記録を持ちつつ、自身芥川賞選考委員になりおおせた島田雅彦の落選の経緯が興味深い。「文学賞メッタ切り」の大森望豊崎由美が、2006年、ゲストに島田雅彦を迎えて行った公開トークショーがあるが、その中で島田が色々と賞の裏側を曝露しているのだ。「人事担当常務」吉行淳之介ではないが、島田は落選を重ねるたびに、賞の「人事性」を痛感、その人事権を握っている人物に意地悪をされたという感触を持っている。そりゃあ六回も落とされればそう思いもしよう。島田が後日古井由吉に教えてもらったらしいが、どうやらその意地悪な人物は安岡章太郎であるという。確かに安岡は初回の候補作「優しいサヨクのための喜遊曲」の時は、「これ一本では心許ない」、としながら、その後の候補作に対してはコメントをしていない。しかし無視するといえば丸谷才一の方が徹底していて、丸谷は四度目の候補の時まで選考委員だったが、一切コメントをしない、という徹底振り。選評をつぶさに読むと、島田の作品に一番理解を示しているのは大江健三郎であり、三度目まで毎回懇切丁寧なコメントを寄せている。しかし大江は文藝春秋社の雑誌「諸君!」の論調に抗議して芥川賞選考委員を辞任してしまい、四度目以降は島田を応援しようもなくなっていた。 大江はこの後、島田が六度目も落ち、事実上受賞資格をなくしてしまった後、再び選考委員に復帰してくるのだから、これは島田の不運である。選考委員に意趣を含まれたという不運、理解者が途中で消えてしまったという不運。しかし島田の落選はとどのつまりはこの不運のせいかというと、満更そうも言えない。島田が候補になった六回のうち、実際に受賞者が出たのは、一度だけだった。残りの五回は悉く受賞作なし、だったのである。つまり文学賞の最大の不運たる、たまさかの他の秀作、あるいは話題作とぶつかったために、受賞を逸してしまう、という不運は彼の場合はなかったのである。「クー・ド・グラース」のない小説は認めない開高健が島田の小説を認めないのは当然だから、それはともかくとして、随時コメントを寄せた中村光夫遠藤周作吉行淳之介三浦哲郎などの選評をフォローしたが、そこに作者と選者の有機的応答というものは汲み取れなかった。つまり、選評で指摘された点を参考にして、次作にそれを反映させたという風には見えないのである。四度目と五度目の候補の間に、先の大江のほかに選考委員の入れ替えがあり、あるいはそれで島田の評価のどん詰まりが打開される可能性もあったのにそうはならなかった。
 それやこれやを考えると、つまりは島田こそが「まれびと」だったのではないかと考える。これまでに文壇に新風を吹き込んだとされ、新しい価値を持ち込んだともてはやされた受賞作家は何人かいたが、しかし受賞したというそのことは、彼の文学が選考委員の手の内にとどまっていることの証左である。そういう意味では島田こそは文学に混入した真正の異物であったと言えよう。先の公開トークショーでは、話を向けられた島田が「(芥川賞を取らなかったせいで)ボクは数千万は損した。芥川賞直木賞も完全に利権ですもんネ」と言っている。落とされ続けたやっかみが当然入っているが、この「まれびと」の目に業界がどのように見えているのかを、雄弁に語るこれは発言である。因みに個人的には私も島田は認めていない。彼の作品を進んで読んだのは、近作「悪貨」で、その貨幣論というテーマに興味を抱いて新刊のその本を購入したが、まったくの期待はずれだった。ひたすら上滑りを続けた果てに中盤に腰砕けになってしまっている作品。私にとってブック・オフ直行という処分を受ける、数少ない本の一つになってしまった。その奇態な文章をはじめ、その発想から何から、私の肌には合わない。私としては島田は「落ちるべくして落ちた」と言いたいのだが、しかし受賞者一般が「受賞すべくして受賞した」とは、とうてい言えないことも分ってしまったので、そうは言えないのである。そういう島田がいまや芥川賞選考委員である。芥川賞が彼の劣化コピーで溢れかえらないことを希望するだけである。彼は自分の経験から、安岡の轍は踏まないことを宣言しているが、人は必ずしも意識して人事権を奮うわけではない。

 追記―初稿で候補回数六度の作家を四名としましたが、阿部昭も候補六度であり、五名と訂正しました。

総括

 2012年の1月に始まり同年12月まで、ほぼ1年にわたって、芥川賞受賞作を読んだ。1935年の第1回から2012年前期147回までの受賞作全152編。評価として、プラス評価(☆一読の価値あり)、マイナス評価(★特に読む必要なし)に分け、それぞれの星の数でプラス度、マイナス度を表わしてみた。プラスは☆☆(才能が認められる)、☆☆☆(傑作と認められる)、までの3段階であるが、★のほうは★★(受賞した事が不可解)、★★★(候補になったことが不可解)、★★★★(文芸誌に載ったことが不可解)、果ては★★★★★(作者の人間性を疑う)と5段階になり、すこし調子に乗りすぎのキライあり。当方に確たる文学理論があるわけでもなし、当初は勝手に評価をつけることが恐れ多く、気が引ける思いがしたが、詮衡委員の選評を読み重ねるにつれ、感覚批評であることは選考委員も同断であることを知り、だんだん遠慮がなくなってきた。だから後半になるにつれ、点数も辛くなる傾向がある。読書も一年にわたるとムラが出るし、時には虫のイドコロが悪かったときもあったりしたので、すべて読み終わった後、評価については調整した。概ねマイナスからプラスの方へ引き上げる調整になった。それでもプラス評価になったのは41作と全体の27%どまり。73%は★である。当初の評価では☆☆☆が2作あったが、全体を見ると☆☆との区別が付けられず☆二つに統合した。それにしても☆が少なすぎる。もっともっと目くらむほどの読書体験があるべきと期待していたのに、打率が3割を切れば、それは期待はずれだったということだ。しかし、77年間に41作という風に見ればそれは順当な収穫のようにも考えられる。芥川賞という、基本的に短編を対象とした、新人発掘のための賞の受賞作に、「決定的な小説は、まだ、書かれていない」という観想を抱くのは、筋違いなことである。それよりも、1編の受賞作の陰に屍累々ということを実感でき、そぞろ無情の念を抱いたことのほうが経験として大きい。何か決定的な才能が現れ、詮衡委員全員がその才能に戦きひれ伏す、というようなことは殆んどなく、大方の入選、落選はそれこそ時の運というものに左右されていることを思い知った。時の運という女神に愛された人に幸いあれ。
 今回最低評価だった作家の名前を再びここで上げれば、まず荻野アンナ。★5つどころか6つもつけてしまった。すなわち、「作者の人間性を疑う」どころか、その存在自体が「文学に対する侮蔑」としか思えない人。★5つは唐十郎、青野聰、4つは絲山秋子藤野千夜。このほか、古くは石川利光、菊村至、柴田翔などの点数が低く、新しくは大道珠貴伊藤たかみ花村萬月柳美里、そして畏れ多くも川上弘美先生などが嫌い、というか肌に合わない。
 ☆のほうには鶴田知也中山義秀八木義徳村田喜代子などのシブいところのみならず、ちゃんと川上未映子や、金原ひとみ綿矢りさ、それにモブ・ノリオも入っているので、満更新しいものに拒否反応を示しているわけではなく、その点自分の評価というか「感覚」を少し頼みにしてもいいか、と思う。

受賞作掲載誌など

 芥川賞は1935年スタートだが、戦後(1949年)から現在までの間の受賞作掲載誌を見てみると、やはりダントツで「文學界」が一番多く、53作にのぼる。次点は「新潮」で23作、「群像」は3位で19作。次が「文藝」で11作。フタケタはこの四誌。あとは「中央公論」「すばる」「海燕」の3誌がそれぞれ3作づつ。「海燕」は14年間の発行期間中に3作、と健闘しているが受賞者は笠原淳、三浦清宏松村栄子と、短命に終わった雑誌や福武文庫と運命を共にしたかのように、いずれも作家として短命な人たちだった。文藝の早慶戦は、「早稲田文学」1作(斯波四郎)、「三田文学」1作(松本清張)と仲良く引き分けている。地方誌では山形文学」(後藤紀一)、「新沖縄文学」(大城立裕)というところ。
 新人賞からそのまま芥川賞というケースは、文學界新人賞が5人(石原慎太郎丸山健二東峰夫、瀧澤美恵子、モブ・ノリオ)、新潮新人賞は2人(高城修三、米谷ふみ子)、群像新人賞は3人(林京子村上龍諏訪哲史)となっている。

限りなく透明に近いブルー  村上龍

  村上龍の小説をかつて私は愛読し、そのうちのいくつかの作品から、頭の中で何かがパチンと弾け、ある凝り固まった観念から解放されるという経験を得た。すなわち彼の小説は私をより多く自由にしてくれた。しかし中には興味が持続せず最後まで読みおおせなかった小説もあり、読みおおせても不全感しか覚えなかった小説もある。特に、近年しきりにエクソドスを唱える彼が、実際はどこにも脱出できていないことは不審である。
 大昔に読んだこの小説は、最後まで読めなかったものの一つ。ただ、多分評論家的性向しかない私ならせいぜい「限りなく明晰に近い憂鬱」というフレーズしか思い浮かばないであろうところ、それを「限りなく透明に近いブルー」と表現しえた作者に嫉妬を覚えた。正確に言えば、それが世間から才能として評価されたことに対する嫉妬なのだが。後年、このタイトルは、編集者が作中の表現から選びだしてつけたものらしいと知る。オリジナル・タイトルは「クリトリスにバターを」というものだった。このタイトルのままだったら、間違いなく彼の運命も変わっていただろう。とにかく、時間を置いて二回目のトライで一応読み終えることができた。その時も、痛切な小説であるがそれほど騒ぐような小説とはどうしても思えかった。観念と感覚だけのこの小説には私は満足できないでいたのだ。文学的な達成もここにはないと思った。観念とモノとの絡み合いの中に放り出されてるのが人間なのだとすれば、観念だけの小説も、観念不在の即物的小説と同じく、小説としては不足している、と私には思えていた。
 この機会に再々読をしたが、確かに「二十代の若者でなければ書けない」という丹羽文雄の評に、今ようやく納得できる。くやしかったら理屈を言わずにこれだけ感覚に徹してみろ、とむしろ自分に言うべきなのである。歪みながら全開された五官を描くという意味ではこれは麻薬文学の白眉であろう(と言ってもバロウズも何も読んではいないけれど)。
 作中、「風景に興味を持ち出すのは年寄りじみたことだ」というような箇所があり、国木田独歩的転倒を拒否している風に思えるが、この小説では女性の露わな裸身こそが風景として作者の目に映じているのであり、この作者にも日本近代文学の命脈が流れていることは自明である。

第75回
1976年前期
個人的評価★ 
 
カイ  二十代の若さでなければ書けない小説(丹羽文雄)
ヤリ   たわいのない、水の泡のような日常(瀧井孝作)

 永井龍男「回想の芥川・直木賞」に、賞の詮衡の過程で起きる「一人が多数」という現象が書かれている。久米正雄命名によるもので、「誰かが、あの小説はオモシロイヨとか、スバラシイゼとか、云ふと、多数の人が、その作品を殆んど読まないで、すぐれたものらしいと、呑み込んで、一票を入れる、といふほどの意味である。『一犬虚に吠ゆれば、万犬実を伝ふ』といふ諺があるが、この時の『一犬』は、ある時は、一つの団体の一員であったり、別の時は、出版社の宣伝部の一人であつたり、する、と云はれている」。永井はさらにこれに註して、「かういふ現象は、芥川賞にもたびたび現はれ、読売文芸賞、その他、私の関係した、いくつかの文学賞にも、現はれ過ぎるくらゐ、あらはれた」と書く。村上龍のこの小説も、群像新人文学賞受賞から、本命として芥川賞詮衡委員の手に渡される過程でこの現象が起きたのではないかと思う。各位の選評にまるで憑かれたように「才能」という言葉が現われるのを見よ。
吉行淳之介/因果なことに才能がある。
中村光夫/本人にも手に負えぬ才能の氾濫
瀧井孝作/野放図の奔放な才気
永井龍男/若く柔軟な才能

追記/2013.2.18
文學界2012年2月号で、村上龍×山田詠美の新春特別対談を遅まきながら読んだ。「クリトリスにバターを」という村上オマージュ小説を書いている山田との対談で、村上は、同タイトルは作成中に母親に見つかって咎められ、投稿前にすでに変更したという話をしている。編集者が直した、という話は確かにどこかで読んでいるのだが、どこで読んだのか思い出せない。いずれにしても本人がそう言っているのだから投稿時には「限りなく透明に近いブルー」になっていたのは間違いないだろう。私は二重の意味でちょっぴり失望した。村上の無頼の面が少し減点した(ママに怒られちゃって渋々直した)のと、編集者という存在の有意義な社会的役割の例が一つ消えてしまったから