限りなく透明に近いブルー  村上龍

  村上龍の小説をかつて私は愛読し、そのうちのいくつかの作品から、頭の中で何かがパチンと弾け、ある凝り固まった観念から解放されるという経験を得た。すなわち彼の小説は私をより多く自由にしてくれた。しかし中には興味が持続せず最後まで読みおおせなかった小説もあり、読みおおせても不全感しか覚えなかった小説もある。特に、近年しきりにエクソドスを唱える彼が、実際はどこにも脱出できていないことは不審である。
 大昔に読んだこの小説は、最後まで読めなかったものの一つ。ただ、多分評論家的性向しかない私ならせいぜい「限りなく明晰に近い憂鬱」というフレーズしか思い浮かばないであろうところ、それを「限りなく透明に近いブルー」と表現しえた作者に嫉妬を覚えた。正確に言えば、それが世間から才能として評価されたことに対する嫉妬なのだが。後年、このタイトルは、編集者が作中の表現から選びだしてつけたものらしいと知る。オリジナル・タイトルは「クリトリスにバターを」というものだった。このタイトルのままだったら、間違いなく彼の運命も変わっていただろう。とにかく、時間を置いて二回目のトライで一応読み終えることができた。その時も、痛切な小説であるがそれほど騒ぐような小説とはどうしても思えかった。観念と感覚だけのこの小説には私は満足できないでいたのだ。文学的な達成もここにはないと思った。観念とモノとの絡み合いの中に放り出されてるのが人間なのだとすれば、観念だけの小説も、観念不在の即物的小説と同じく、小説としては不足している、と私には思えていた。
 この機会に再々読をしたが、確かに「二十代の若者でなければ書けない」という丹羽文雄の評に、今ようやく納得できる。くやしかったら理屈を言わずにこれだけ感覚に徹してみろ、とむしろ自分に言うべきなのである。歪みながら全開された五官を描くという意味ではこれは麻薬文学の白眉であろう(と言ってもバロウズも何も読んではいないけれど)。
 作中、「風景に興味を持ち出すのは年寄りじみたことだ」というような箇所があり、国木田独歩的転倒を拒否している風に思えるが、この小説では女性の露わな裸身こそが風景として作者の目に映じているのであり、この作者にも日本近代文学の命脈が流れていることは自明である。

第75回
1976年前期
個人的評価★ 
 
カイ  二十代の若さでなければ書けない小説(丹羽文雄)
ヤリ   たわいのない、水の泡のような日常(瀧井孝作)

 永井龍男「回想の芥川・直木賞」に、賞の詮衡の過程で起きる「一人が多数」という現象が書かれている。久米正雄命名によるもので、「誰かが、あの小説はオモシロイヨとか、スバラシイゼとか、云ふと、多数の人が、その作品を殆んど読まないで、すぐれたものらしいと、呑み込んで、一票を入れる、といふほどの意味である。『一犬虚に吠ゆれば、万犬実を伝ふ』といふ諺があるが、この時の『一犬』は、ある時は、一つの団体の一員であったり、別の時は、出版社の宣伝部の一人であつたり、する、と云はれている」。永井はさらにこれに註して、「かういふ現象は、芥川賞にもたびたび現はれ、読売文芸賞、その他、私の関係した、いくつかの文学賞にも、現はれ過ぎるくらゐ、あらはれた」と書く。村上龍のこの小説も、群像新人文学賞受賞から、本命として芥川賞詮衡委員の手に渡される過程でこの現象が起きたのではないかと思う。各位の選評にまるで憑かれたように「才能」という言葉が現われるのを見よ。
吉行淳之介/因果なことに才能がある。
中村光夫/本人にも手に負えぬ才能の氾濫
瀧井孝作/野放図の奔放な才気
永井龍男/若く柔軟な才能

追記/2013.2.18
文學界2012年2月号で、村上龍×山田詠美の新春特別対談を遅まきながら読んだ。「クリトリスにバターを」という村上オマージュ小説を書いている山田との対談で、村上は、同タイトルは作成中に母親に見つかって咎められ、投稿前にすでに変更したという話をしている。編集者が直した、という話は確かにどこかで読んでいるのだが、どこで読んだのか思い出せない。いずれにしても本人がそう言っているのだから投稿時には「限りなく透明に近いブルー」になっていたのは間違いないだろう。私は二重の意味でちょっぴり失望した。村上の無頼の面が少し減点した(ママに怒られちゃって渋々直した)のと、編集者という存在の有意義な社会的役割の例が一つ消えてしまったから