蛍川  宮本輝

 この小説は日本の近代文学の一つの極である。「風景の発見」/「国木田独歩的転倒」というものを極めれば、このようにその高度の抒情性を玩味すべき小説になるのだ。たとえそれが偏向であろうと失考であろうと、ここまで極めればそれは何ものかである。ここには生活に押し流されていく卑小な日本的現実が確固としてあり、一瞬、彼岸の世界のきらめく顕現がそこから立ち昇りもする。しかしこれはまた同時に、細部の芸というものが盆栽の枝ぶりのように鑑賞され評価される、日本的文学の現実でもある。

第78回
1977年後期
個人的評価☆

カイ  抒情が浮き上らずに、物自体に沁みこんでいるところが良い(吉行淳之介)
ヤリ  いま現におなじ時代のうちに生きている若い作家が、ここにこのように書かねばならぬという、根本の動機がつたわってこない(大江健三郎)

 「風景の発見」/「国木田独歩的転倒」=「忘れてはならないならない大事なもの」に対して、「どうでもよいが忘れられないもの」を優越させるイロニー的転倒、という構図は、大逆事件終結する日本の自由民権運動を「忘れてはならない大事なもの」とする柄谷行人のパースペクティヴによる。彼は「世界共和国」の成立に極まるべき「世界史の構造」をこれ以上もなく明晰に摘抉してみせた。さて、この「世界共和国」をどのように実現するというのか。その美しい理想はまたしても夥しい流血を呼ばずにはいないだろう。そして「世界共和国」を目指す「自由民権運動」もまた敗北の運命にあることは自明なことのように思われる。最も避けたいがしかし最も実際的なシナリオは、「世界新秩序」を目論む「カナン人」の血塗れの手によってそれが実現されることだ。その「世界新秩序」が(アメリカも中国も抑えて)ヘゲモニーを握ったとき、柄谷の理論によれば、帝国主義(新自由主義)が去り、自由主義が現出することになるから、それをこそ「世界共和国」として幻視するしかないように思われるのだ。