鯨神  宇能鴻一郎

 マルクス経済学者(宇野弘蔵、鈴木鴻一郎)から名前を借りてペンネームをつけたほど社会学的志を有した(と思われる)筆者がなぜ後年官能小説家などになってしまったのか。本作を読めばすぐれた「純文学」的資質を有していると思われるにもかかわらず。しかも受賞の挨拶を読めば、肉体・行動の石原、感情の大江、いずれも知性が欠けているとして、知的戦後世代を造型したいという野心を述べてさえいた、それにもかかわらず。三島自決後、純文学の筆を折り大衆作家に転じたというが、作譜を見れば、既にその前から書かれているのはことごとくが官能小説である。本名の鵜野をまた宇野を宇能と変じたとき既に自分の嗜好が奈辺に存するのかよくよく自覚していたのだろう。宇能の「変節」には、作者を取り巻く出版社や編集者などの人間関係や、文筆で生計を立てていく必要性という外的要因よりも、作者をドライブさせていたものがそもそも官能だったという内的要因の方が優っていたように思われる。この回、吉村昭は三度目の候補となったが、宇能に競り合い負けをして落選している。吉村は結局芥川賞が取れず、この後も苦難の道を歩む。人はそれを吉村の不運というが、果たしてそうだろうか。吉村が仮に受賞していたら彼もまた出版資本の要請に屈して、変節していたかも知れない。その後賞とは無縁だった宇能とは違い、吉村は後年、数々の社会学的傑作を生み出し、様々の賞を手中にした。

第46回
1961年後期
個人的評価☆

カイ  野性的なエネルギーに満ちた作品で、芥川賞授賞作にふさわしい新風(井上靖)
ヤリ  若気の至りの粗大なもの(瀧井孝作)