妊娠カレンダー  小川洋子

 「受胎告知小説」としての「妊娠小説」が男流文学だとすると、このように妊娠そのものの経過を扱うものは女流文学としての本家「妊娠小説」である。しかし妊娠という生理的変化で女性が不機嫌になるということには、一定の実存的意味以外の社会的意味というものはあまりないように思う。本人も周りの人間もただ我慢してそれをやり過ごすしかないものなのだから。出産を控えた姉に毒薬の染まったジャムを食べさせる妹だって? 作者がその動機を内在的に生きていないのは読めば明らかである。だとしたらこれは擬似愉快犯的な文学的犯罪である。だって読んでみたらそれはただの防かび剤残留疑惑のあるアメリカ産グレープフルーツで作ったジャムのことだったのだから。母親に砒素を盛り、その病状の変化を克明に記録していた女がいたという事件は、この小説の発表のあとのことだったと思うが、そのような現実にまったく太刀打ちのできない小説である。心理小説としてはかくも脆弱、かと言って運命を俯瞰する強度を人間にもたらす観照があるわけでもない。習作のレベル。しかし、「チョイ悪オヤジ」(気持ち悪い)は廃れても、「チョイ悪小説」はなかなか廃れないものだ。それが美形の手によって書かれたものならなおさら。

第104回
1990年後期
個人的評価★

カイ  ごく普通のことの奥に、ぞっとする不安ないし恐怖を透視すること。それが作品の中だけの恐怖であっても、文学という営みの貴重な意味と考える(日野啓三)
ヤリ  妹の悪意が倫理によって裁ける性質のものではないだけに、作品はどこか透明な仄暗さを孕んでいる。そこに魅力があるのだが、同時に曖昧さの残るのも事実である(黒井千次)

 現在、芥川賞詮衡委員になっている先生に対してこんなこと言うのはおこがましいけれど、近作を見てもやはり習作のレベルを脱していないと思う。「博士の愛した数式」なる小説は、数学の深遠さを言葉で表現するのではなく、ただ数学の難解さを水で薄めて飲みやすくしたような、ただのデイレッタンティズムとしてのお話に過ぎない。比較しても仕方がないが、サイモン・シンの「フェルマーの定理」はノンフィクションであるけれどこちらのほうがはるかに「文学的」感興に富む。しかし情けないことに後者より前者のほうが読者にウケるらしいのである。世の中にはムツカシイ哲学や数学をやさしく解説してくれる本に常に一定のニーズがあるとは言え。