砧をうつ女  李恢成

 この小説では、著者の母への愛惜が綴られるが、在日一世である彼女が生きた時代には必然的にさまざまな日本の悪行が投影されざるを得ないので、その愛惜の念を前に、日本人としては言葉を失う思いがする。祖国が「日帝」に侵略され虐待を受けたという、永遠に感情的、被虐的な朝鮮人の史観と、朝鮮の近代化のためにさまざまの善行を施したという、幾分かは手前味噌な、あるいは春秋の筆法的な日本人の史観とは、その間に絶対的な溝を挟んで、架橋する術がない両岸として対峙し続けている。
 李恢成は作家となる以前、朝鮮日報朝鮮総連に属し、時の北朝鮮帰国運動に関与していた。また北朝鮮工作員を勧誘する仕事もしていた。彼の自伝的な小説「地上生活者」には、工作員として韓国の変革と統一運動に従事していたが、やがて韓国内の工作線の解体を決意し、「『在日』の問題をやっていく」と宣言する人物が出てくる。北朝鮮の理想に幻惑され、やがてその夢から醒めると、あたかも思想工作の延長のように、「在日」という問題を手元に手繰り寄せるこの人物は、あたかも李恢成その人のように思える。ここにも架橋不能な両岸の存在が感じられるのだ。拉致に関与した北朝鮮のスパイ、シン・ガンスの助命釈放運動をしたのは菅直人千葉景子であるが、李恢成も、同じく北朝鮮のスパイ、ソ・スンの、韓国のでっち上げとする助命運動を、井上ひさしや和田春樹と共にしている。しかしそもそもソ・スンをオルグしたのが実は李恢成だった。彼のこのような活動を、文学の外部のものとして捨像することは出来ない。いずれにしても、それが審美的なものであれ、実践的ものであれ、この小説に対するどのような評価も現実には意味を持たない。個的に、実践的な場で著者との人間的接点を有する者のほかは、小説を読んだあとは、「在日」としてのこの場所を立ち去り、自分の居場所に帰るしかないだろう。

第66回 
1971年後期
個人的評価★

カイ  素直な抒情的な筆がよくのびている(安岡章太郎) 
ヤリ  登場人物は鮮やかに描かれていますが、鮮やかすぎる作りものに似た印象をあたえるのは、氏の筆がひとのつけた条痕を行くスキーのように走りすぎるからでしょう(中村光夫)